原町特攻隊の歌の伝承経緯が分かってきたので推測を交えて書いてみる。
原町飛行場で編成された國華隊の井上清隊員が作詞(三番まで)万世特攻平和記念館蔵とされ、平成19年提供と書かれたコピーが手元にある。掲載は自粛。間違いなく井上さんのものという。
現物は24年11月の段階では確認がとれていない。
國華隊の隊員は、「宴会など砕けた場面で時折歌っていた」と証言する。(宿舎となった柳屋の娘さんより)
つまり、流行歌の替え歌であり真面目な場面で歌う歌ではない、と考えていたのだろう。
木下栄寿と八牧通泰は原町飛行場で航空士官学校58期の教官と学生という関係であった。
木下氏は20年3月に赴任してきたという。
木下が四番の歌詞を作り、たまに口ずさんだこの歌を、八牧は木下作詞として書き残したかったのではないだろうか。
八牧通泰は後に慰霊祭の事務局長を務めることになる。資料を提供して男性合唱団原町メンネルコールの協力で慰霊祭のときに歌ってもらい、現在に至る、と言ったところか。一応原町側では木下作詞が公式になっている。
27.1.30追記
万世側の添え書きにノートのコピーを送る、とあったが、私は20×15cmほどの薄い紙にカーボン紙で写し、隊員間で配ったものの一枚ではないかと推測する。画像データとして、私は橘軍曹、実物として巽少尉の作詞した歌詞の、同じ様式の物を持っているからだ。井上氏の、この紙も、小さく折り畳まれていた跡がついている。他の二枚と一緒だ。
原町飛行場で編成された國華隊の井上清隊員が作詞(三番まで)万世特攻平和記念館蔵とされ、平成19年提供と書かれたコピーが手元にある。掲載は自粛。間違いなく井上さんのものという。
現物は24年11月の段階では確認がとれていない。
國華隊の隊員は、「宴会など砕けた場面で時折歌っていた」と証言する。(宿舎となった柳屋の娘さんより)
つまり、流行歌の替え歌であり真面目な場面で歌う歌ではない、と考えていたのだろう。
木下栄寿と八牧通泰は原町飛行場で航空士官学校58期の教官と学生という関係であった。
木下氏は20年3月に赴任してきたという。
木下が四番の歌詞を作り、たまに口ずさんだこの歌を、八牧は木下作詞として書き残したかったのではないだろうか。
八牧通泰は後に慰霊祭の事務局長を務めることになる。資料を提供して男性合唱団原町メンネルコールの協力で慰霊祭のときに歌ってもらい、現在に至る、と言ったところか。一応原町側では木下作詞が公式になっている。
27.1.30追記
万世側の添え書きにノートのコピーを送る、とあったが、私は20×15cmほどの薄い紙にカーボン紙で写し、隊員間で配ったものの一枚ではないかと推測する。画像データとして、私は橘軍曹、実物として巽少尉の作詞した歌詞の、同じ様式の物を持っているからだ。井上氏の、この紙も、小さく折り畳まれていた跡がついている。他の二枚と一緒だ。