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Channel: ふくしまの戦争資料室
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朝日の江戸川記者の記事

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以下、朝日新聞より。元の記事をお持ちでしたら提供お願いします。
関係者に聞き回ったら江戸川夏樹記者の記者のウソが浮き上がってきました。
赤字にてちょいちょいツッコみます。



 ●憧れの軍神、鬱屈した姿も

 相馬野馬追の会場となる南相馬市の雲雀ケ原。その近くの丘の上に、特攻隊をしのぶ慰霊碑がある。花を手向ける人は今、ほとんどいない。

 「この人だよ。一緒に山に登ったんだ」。特攻隊の宿舎となった旅館「柳家」を両親が経営していた松浦尚三さん(80)=南相馬市=は犠牲となった隊員の名前をそっとなでた。

旅館じゃねーし屋号は「柳屋」じゃボケ!

一緒に山に登った人は、どうしても思い出せないって言ってるけど、どうなんだろ?

   ◆   ◆    

 原町(現南相馬市原町区)に陸軍飛行場が開設されたのは1940(昭和15)年。戦況の悪化を受け、特攻隊の訓練基地となった。

 松浦さんの記憶によると、45(昭和20)年4月から約2カ月間、特攻隊の若者12人が「柳家」に身を寄せた。後に、原町飛行場から特攻機で出撃していった国華隊だ。

出撃と出陣の違いも分からないの?

 隊員は松浦さんの母親を「お母さん」と呼んだ。休みの日には釣りに連れて行ってくれた。訓練になると、ぱりっとした飛行服で出かけていく。その前年、特攻隊となった原町出身の中野磐雄さんが戦死して町に「我が町で育った少年が軍神になった」とお祝いムードがあふれたばかり。隊員は子どもたちの憧れの存在だった。

 その中に、近くの山に連れていってくれた隊員がいた。いつも無口で、優しく笑っていた兄ちゃん。出征直前、頂上までだまって歩き、夕日に染まる街並みに「いいなぁ」と一言つぶやいた。理由は分からない。寂しそうな印象だけが後をひいた。

ここらへんは航空士官学校57期と混同?
➡国華隊員らしいが、2名いたとのこと。

「お母さん」と読んだのは57期鈴木邦彦少尉のみ女中さんなんかが「お母さん」というのを真似して言ったのかもしれない。しかし、国華隊の人が「お母さん」と言ったのは聞いた事がないという。書簡なんかでも「松浦の叔母さん」「柳屋の叔母さん」みたいな記述が多い。

 雰囲気が変わる隊員もいた。

 頭から離れない音がある。「シャッシャッ」。庭で遊んでいた松浦さんが聞き慣れない音に振り向くと、柳家に出入りしていたひとりが一心不乱に庭の竹を軍刀で切っていた。「誰にも見せられない鬱屈したものを振り切っていたのかもしれません」

➡ここは、57期の誰かであって、特攻隊員たる国華隊の方々ではない。(本人談)

➡姉:竹なんか無いわよ。なんて言われちゃった。じゃ笹じゃね?と聞いたら庭には笹もないとのこと!

 特攻隊はかっこいいだけの存在なのか―。子供心に疑問がわいた。

➡松浦氏は議員立候補時に「ひとつ屋根のしたで男の生き様を見た、男は立たねばならない時がある。これが立候補の動機のひとつだ」と語ったという。記事のような低俗な考えではない。
また、子供心に疑問がわいたというが、これは本人の真意に反していて、「飛行兵は憧れの存在しかなかった」「海軍は眼中になかった、とにかく陸軍の飛行兵になって戦闘機で空中戦をやりたかった」と語る。記者は最初から書きたい事を決めて取材に臨んだに違いない。

 原町を去る日、隊員たちは翼を揺らしながら、柳家の上を2回旋回し、旅立った。松浦さんは屋根の上で、力いっぱいに旗を振って見送った。12人いた隊員の9人は沖縄の海に消えたと聞いた。機体の不調などで出撃できなかった隊員3人は運命を悩みながら、戦後を生きた。

出撃できなかったのは横田さん1人だけ。

 原町から出撃した特攻隊は国華隊と神州隊の2隊。ほかにも原町飛行場で訓練した300人以上のパイロットが戦死した。

原町では本土決戦に向けて「決と号」(原町で「まると」と称する)の神鷲隊がいたが、出撃はしていない。

 終戦後、軍隊は悪者と学校で教えられるようになった。「兄ちゃんたちの存在が否定された気がしました」。国を信用できなくなった。

➡本人:短時間の取材じゃ若い記者には分からないだろうな~

 東京都内の大学に在学中は、安保闘争に参加した。地元に戻ってからは国が進める原発の危険性を唱え、反対運動を続けた。

この話は、この世代だからしょうがない。しかし、隊員への鎮魂という認識が共産党と彼の考えがまったく違っており、共産党入りはやめて一匹狼を貫いたという。彼は当時の左派ではあるが、芯まで真っ赤っかではない骨のある人物であることを付記しておく。
   ◆   ◆    

 そんな松浦さんに会いに来た人がいる。

 南相馬市出身の作家F上○○さん(62)。伯父が亡くなった原町の空襲に関心を持ち、郷土史を調べ始めて40年以上。証言できる人を探し、毎日のようにブログでふるさとの歴史を発信し続けている。松浦さんが語る「兄ちゃん」たちの思い出に耳を傾けた。

➡本人:F上氏が江戸川記者と訪問した事実はない。
➡姉:彼が松浦氏と1:1で取材したことはないと聞いている。


(江戸川夏樹)





昨日、松浦氏のおねーちゃんと記事について話したら、目茶苦茶激怒してました(^_^;)支局じゃなく朝日の本社に電話してやりたいと。

俺も江戸川記者本人にクレーム入れようと思ったんだが、すでに電話張から消してた( ̄▽ ̄;)


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