「人生に迷ったら知覧に行け」松永茂久
http://shikokunoizaki.la.coocan.jp/Book/Chiran.htm
このURLより一部を転載させて頂く。
45振武隊長の藤井中尉の話だ。
17歳から20代前半が当たり前であった特攻隊員の中で一人だけ年長の特攻隊員がいる。
藤井一(ハジメ)中尉。29歳
彼は精神教育を担当していた指導教官だった。
自分も行く!と嘆願していたが軍部は聞き入れなかった。
それには理由がある。
まず年齢的に29歳というのは特攻隊員としては歳を取りすぎていた。
また妻と二人の子供がいたことも理由のひとつであった。
年長で面倒を見なければいけない家族が多い将校などは、
原則として特攻には採用されない。
それになにより。精神教育を担当していた藤井中尉には、実践経験がなかったのである。
ところが……、
何と奥様が子供を一緒に自害。
「私たちがいたのでは、後顧の憂いになり、思う存分活躍できないでしょうから、
一足先にお先に待っています。」
幼い長女と次女に晴れ着を着せ、極寒の荒川に身を投げたのであった。
その訃報を聞いて現場にかけつけた藤井中尉は泣き叫んだという。
「私は常々、飛行士に対する精神訓話で死生観に徹せよと言っているが、
なぜおまえたちが…」
その後も妻子の死を無駄にすまいと、再度、嘆願書を提出。
この事情が考慮され、ついに軍は藤井中尉の特攻を許可したのだった。
藤井中尉の遺書
「冷たい12月の風の吹き荒れる日、
荒川の河原の露と消えた命
母とともに殉国の血に燃える父の意思を叶えるために一足先に準じた、
哀れにも悲しく、しかも笑っているかのように、
喜んで母とともに消え去った命がいとおしい
父も近く、おまえたちの後を追っていけるだろう
こんどはいやがらずに、父の膝のふところでだっこされて
ねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんがないたらよくおもりしなさい。
ではしばらくさようなら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄をたててお土産にしてそちらに行きます。
では、一子ちゃんも千恵子ちゃんも
それまで待っていてちょうだいね」
⬆意訳なのか原文のままなのかはっきり書けよ!
この教官の身におきた悲劇、そして、部下だけを行かせはしないというリーダーの
覚悟に心うたれた藤井隊の隊員は、隊長と一心同体の強固な結びつきをつくった。
⬆⬆この部分は同感!!
そして、絶対に特攻を成功させるという決意を強くしたのだった。
そしてその思いは天まで届く。
後年、ホタル館の現館長の島濱明久氏のもとに、年をとったアメリカ兵がやってきた。
彼の話によれば、藤井中尉が飛んだ5月28日、
その方の乗っていたアメリカ空母に、一度は墜落しそうになった二人乗りの飛行機が、
もう一度水面ギリギリで浮上し、突っ込んだらしい。
空母ってなんだよ空母って?米軍兵の証言バカにしてんの?
その二人乗りの特攻は成功したのだ。
藤井中尉は飛行機を操縦できなかったため、教え子の後ろに乗って特攻に出撃した。
そして、その日、二人乗りの出撃は藤井中尉の乗った飛行機ただ一機のみだった。
藤井一陸軍中尉 1945年5月28日 知覧より出撃 沖縄洋上にて戦士
茨城県出身 享年29歳
藤井機を操縦するのは航空士官学校57期として原町で訓練し、鉾田に配属となった小川彰少尉である。隊員は皆、隊長とは初対面であった。
また、二人乗りだったのは小川機だけという、根拠のない話はどこからの話なんだろうね。
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【45振武隊】知覧感動物語のいう「真実」に警戒を‼
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