立上がった青年たち
重大ニュースを聞いたのは昭和二十年(一九四五)八月十五日、たまたま湯野国民学校では勤労奉仕に集まっていた生徒たちと、校舎の一部に駐留していた伝部隊の軍人たちであった。
正面玄関前に整列してラジオをきいたのだが内容は不明であった。終戦の詔書であるとわかったのは、伝部隊からの通報によったものであった。
戦後処理ということは、見るもあわれであった。勝つまではと思って開墾した校庭の畑を地均しして遊び場に直し、暮坪の裏山に掘った防空壕も入口をふさぐなど、次つぎに連絡されてくる指令に対して一つ一つがこれが事実なのかと考えさせられるほどであった。
一早く解散したのが伝部隊、やがて疎開学童も東京へ帰っていくと、はじめて町は我に帰った。
昭和二十二年十二月、新生青年団の再起が考案された(中略)伝部隊が残していった木造の飯場(建坪五〇坪)を改造して炉端のある公民館の教室とし(後略)