国華隊の巽精造少尉の末妹の方の快諾を得まして、彼についての遺書、写真、記事を公開させて頂くことと致します。私の提示した条件は「特攻を商売にしないこと」「いつか必ず形にすること」です。無断転載はご遠慮下さい。
巽精造(たつみせいぞう)
大正10年、大阪府吹田市の藁製品の問屋で生まれる。
大阪市立扇町商業卒、関西大学の夜間を卒業し17年10月現役兵として輜重兵4連隊へ。18年4月甲種幹部候補生。18年11月特別操縦見習士官、19年4月太刀洗飛行学校卒業、23教育飛行隊へ配属。19年7月少尉任官、8月鉾田教導師団付。20年4月第一飛行師団司令部を経て6航軍司令部付。以降は別に述べることとする。
性格は明るい難波っ子で、男らしさの中に繊細さを秘めた人物であった。正義感が強く、問屋の主人であった父常吉が年末年始に得意先へ「つけ届け」をするのを嫌な顔をして見ていたという。(商売人にとっては当時常識ではあるが)
昼は店の手伝い、夜学に通学するという忙しい生活を送っていた。家を出る前に妹のハンカチを取って汗臭い丸めたハンカチが置いてあったということが良くあったようで、家ではその思い出が印象が強いようだ。
学生時代に文子さんという女性に出会った。彼の優しさに彼女は惚れてしまう。
私は、その飄々とした風貌から面白い人を想像していたが、聞いてみると、妹さんの夜の襖の開け閉めがうるさかったらしく、初めて殴られた相手は兄だったとのこと。
兄の特攻隊拝命は家族も知っていたし、妹としては非常に誇らしく思っていた。
原町飛行場で編成された国華隊では、柳屋に合宿していたが、ある宴会では東北人の朴訥な隊長に指名されて歌などの芸を披露させられていたのは関西人の気質を買われての事であろうが、本人は毎回頼まれるのは不本意だったようだと柳屋の娘は回想する。
遺品受領の名目で家族との面会が出来た幸せな隊であった。巽少尉は原町を出陣して大阪は大正飛行場に降り立った際(5/28)に家族との面会が叶っている。他に5組の家族も来阪している。
31日に目達原へ出発しているが、天候不良で確定しない出発日に、家族は弁当持参で3日間通っている。食糧難の時代、さぞ大変であったことが想像される。大正飛行場にいたうちの1日、これは29日だと思われるが家族は飛行場に行き、父常吉と親友の藤井文太郎の父を後部座席に乗せて遊覧飛行を実施している。この時吹田の実家上空を飛んだ。その日家に残った妹二人(上の妹は病気療養中)は高いところは苦手なのに屋根に上って夢中で手を振ったという。出発の31日に見送った時は、大きかった飛行機がどんどん小さくなっていく、ゴマ粒より小さくなっていくのが今も思い出され涙するという。それが兄を見た最後だった。
許嫁の文子さんは、出発前に「二人分幸せになれよ」と言われ、また遺書には彼女を気遣う言葉が綴られている。
6月9日、父に宛てた手紙には「大阪ヲ立ツタ夕日ノ思ヒ出ヲ ソット 胸ニイダイテ征キマス」と書いている。
兄が死んだと聞いた時は、誇りはあれど悲しくはなかった。それが当時の心境だった。
母は戦後、子供たちが寝静まったあと、寝床の中でこっそりと彼の残した遺書を読んでいた。次兄は兵役経験者で内地にいたのち復員しているが、精造の遺品や遺筆にはあまり興味をもたず遺品はさっさと整理してしまったという。それを逃れるために奈良の自衛隊に預けたという。巻き紙にして4巻の長い手紙には彼の繊細さが見てとれるものである。
また、彼の日記も残されていたが、戦後に自称文筆家に特攻を書きたいからと貸し出したが帰ってこなかった。誠に惜しいことであり、発見が切に望まれる。
文子さんは「45年目の手紙」「茜空」の二冊を出版。彼への愛情を紙上にて切々と語る。これほどまで愛された方がいただろうか。現在体調が優れず、音信は途絶えているらしいが、近年まで特攻と聞くと泣いてしまう、非常に神経が細やかな方であったという。また、長年精造さんと男女の仲になれなかったことは悩んでおられた。
最後の帰郷時には、父母が気遣って二人だけで別室に泊まったというのに・・・
しかしそれは彼の、遺される許嫁のことを思いやってのことであったのだろう。
遺書には「三途の川についたら何か商売でもスベエかと考えている」と書いている。
彼は現在も遺族を見守られていることであろう。
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国華隊 巽 精造少尉の話
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