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第63振武隊 神州隊の服装再現③

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神州隊服装再現第三報として、今回はつけ襟の話。
             

先日の榊原吉一軍曹と仙台航空機乗員養成所同期の佐々木平吉軍曹(戦死後少尉、写真は伍長時代)の写真を「陸軍最後の特攻基地」に見つけたため掲載させて頂く。

「つけ襟」とは、軍服を開襟着用した際に襟の汗や襟垢の汚れ防止のためにつける襟布と同じ目的で使用する。開襟型の夏襦袢を採用してからは、その襟を軍衣(防暑衣)の外に出すことで同じ効果がある。

佐々木軍曹の写真を見ると、つけ襟なのか、夏襦袢の物なのか、少し悩む部分がある。つけ襟は私物または部隊で製作したため形状に決まりはないが、おおむね製作に容易なように簡易な形状をしている。しかし、写真では「下襟」がはっきり確認でき、夏(防暑)襦袢の襟の形状とほぼ一致する。第一ボタンホールが確認できれば間違いない。
夏(防暑)襦袢はカーキー色ないし緑色だけではない。ある資料収集家のホームページには昭和二十年製の実物白色襦袢が掲載されているし、第二師団司令部(勇一三三九部隊)所属の古山高麗雄氏(兵隊作家)は一等兵時代これを着用している。
集合写真でも明かにつけ襟を使用している方もいる。もしかすると、白色 と 普通品混在で支給され、白の襟出しを見て「将校みたいで格好いいから下士官は白色開襟で統制しないか」という会話があったかもしれない。

(あくまで根拠の無い想像によるものです。)

第63振武隊 神州隊の服装再現④

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63振武隊の服装再現第4報

64振武隊の渋谷健一大尉の軍衣が現存する。原町で訓練した63(神州)、64振武(国華)はどちらも日の丸をつけていたことを思わせる資料ながら、64振武の軍服姿の写真は未見。

日の丸について、万世特攻平和会館に問い合わせる。
判明したことを記す。
①サイズ5×5センチ、日の丸径3センチ
②日の丸は縫い付け
③針足の間隔にバラツキがあり、手縫いだと思うが縫い目は綺麗なのでミシンの可能性もあり。




もう1つ判明したのは、先に掲載した航空胸章は、私の所持する硬式ではなく、生産性重視の織り出し台座つきの簡素なものであった。
また課題が増えた。今後も判明次第掲載していく。



私は航空コレクターではないので先日掲載した空中勤務者章と航空胸章は希望の方がいれば放出する。

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歩兵第六十五連隊 部隊章に関する証言

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NHK戦争証言アーカイブスより引用

八巻一夫氏の証言より
「・・・尽忠報国の精神に燃えて、自分のことは捨てて、お国のために、ただ、ひたすらに訓練を受けたところなんですよ。それで、戦地に行っても、白虎部隊というのは、軍の最精鋭と言われておる。13師団は、ここに青いマークをつけたの。これ、中国に言わせると、チンゴエ、青い鬼と恐れられるくらい、非常に恐れられたんですよ。そして、困苦欠乏に耐えて、そして、戦ってきた。だから要するに、何でも耐え忍んで、まあ、そういうふうに、たたき込まれて最後まで、来たわけです。そういう思いです。」


小澤喜代志氏の証言より
「会津は、福島県は65(連隊)、これはもういちばん優秀で。だから各部隊を一目で分かるようにこういう小さい布を縫いつけていたの。白虎部隊は紫。んだから、支那の兵隊が見っと、ああ紫。これ65(連隊)だ。これ危ねえ。そんで見分けしていたんです。」


検索ワードに変化が・・・

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めったに検索で来る方は少ないのだが、昨日は郷土部隊関連が多くなっている。興味がある人は全て友人。是非交流をお願いしたいと思う。

原町編成の特攻隊 第63振武隊 神州隊②

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63振武の使用した機種は九九式襲撃機であった。

別の部隊の99襲画像。
「発動機」さん有り難うございます♪







63振武での特徴は断片的だが以下の通り

①もともと集合排気管であったのを改造、単排気管にしている。
②出撃した7機に無線機は載せていない。
③機銃は取り外し、全くの丸腰
④木製プロペラに交換していたが、純正金属プロペラに戻している。
⑤明灰緑色のベースに濃緑色のスプレーガンによる迷彩塗装。
⑥日の丸は白縁がつく。また、日の丸後方には白帯。
⑦機体の番号は白色、飛行場隣接の軍需工場「原紡」から調達した。
⑧部隊マークは赤と白の2色。
⑨部隊マークは相馬高商の美術教員藤田魁のデザインで、相馬高商の生徒が描いた。

模型を作ってくれる人いませんかぁ~??

歩兵第六十五連隊 謎の星章!?

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会津若松歩兵第六十五連隊(白虎部隊)の服装の謎・・・

とりあえず再現してみる。三式の大型星章なので多分サイズは違う。



連隊長立花芳夫大佐


なにこれ?




なに?




なんなんだよ!!








原町特攻隊 神州隊史 ①沿革

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第63振武隊、通称神州隊。


昭和20年3月23日、第1飛行師団担任により編成
使用機種九九式襲撃機
隊長久木田清中尉
編成地及び訓練基地:原町基地
最終待機基地:万世基地
出撃:昭和20年6月7日


 所属隊員(数字は機体番号を示す)
11→13中尉 久木田清  離陸不可
  21少尉 木幡正義      目達原に残留
31同  高田明       離陸不可
  23准尉 難波晋策  岡山県
  12同  宮 光男  広島県
  22曹長 後藤與二郎 三重県
  33軍曹 堀口良助      目達原に残留
13→11同  廣瀬廣義    負傷により終戦まで入院
  32同  服部良策  三重県
14同  中沢留吉      徳之島に不時着
34同  佐々木平吉 静岡県
24同  榊原吉一  福島県
 
【沿革】
  20.3末 
  ・久木田中尉 特攻隊長を拝命。第1飛行師団(帯広)付。
  ・飛行隊長より全員が(国華隊含むと推察)最期の休暇を貰い、 近畿以西の隊員が帰省の為に双発高等練習機にて出発。 (操縦者は国華隊の横田彦次郎軍曹?)
  ・休暇後、立川で飛行機受領
 
【私生活】
  ・原町では営内居住者は、料亭「魚本」を宿舎とする。
  ・久木田中尉は下宿住まい、廣瀬准尉・難波曹長は営外居住であった。
・高田少尉、宮曹長は恋人と仮祝言をあげて魚本の別室に同棲した。


 
※昭和二十年、相馬野馬追いの時、第六十四振武隊國華隊が下宿していた料亭柳屋に神州隊下士官七名が招かれ、その日本庭園で撮影された写真とのこと。写真は「あかねぐも」より引用。
  ※野馬追いの時期については昭和20年7月。とっくに原町から出発しているのでどういう事情かは不明。但し国華隊員の甲冑姿は写真に残っているため、野馬追いに関係するのは間違いない。
 

20.4.19 第1飛行師団から第6航空軍に転属
  20.5.1  一部隊員の進級発級
  ・陸軍准尉へ…廣瀬・難波
・陸軍曹長へ…後藤
・陸軍軍曹へ…榊原・佐々木
  20.5.15 山口県防府の飛行場に転進(理由不明。榊原軍曹の家族あて葉書より)
20.5.27頃(もっと早かったのではないか、という意見もある。)
原町から八尾市大正飛行場に転進(1~2機が整備不良で出発できず。)
・大正飛行場滞在時、廣瀬准尉、隊長機の試験飛行中生駒山に墜落する事故発生、 空中より偵察の結果、負傷しているが生命は無事とのことで 木幡少尉以下下士官一名を差し出し飛行場大隊の車で収容。 飛行機は大破、廣瀬准尉は終戦まで陸軍病院に入院し原隊復帰ならず。

20.6.2 佐賀県目達原飛行場に前進、私物品の整理を実施。

20.6.4 鹿児島県万世、唐仁原飛行場に前進 小幡少尉、堀口曹長は目達原に残留(整備完了をもって万世へ前進予定であったと推察される。) 宿舎は加世田町の飛龍荘?

20.6.7 ・出撃命令あり「本日薄暮、第六十三振武隊の全機をもって沖縄に攻撃をかけよ」
  ・編隊形式をとらず、2~3機ずつ単縦陣をとって3方向を低空で接敵すると決定。
  ・出陣式挙行 ・使用機始動直前に空襲警報あり。爆装解除し爆弾のみ隔離。
  ・空襲警報解除(敵機は現れなかった) ・再度爆装作業 ・16時50分~55分、7機が出撃、機体不調のため久木田中尉、高田少尉離陸できず。 

准尉 難波晋策  
  同  宮 光男 
曹長 後藤與二郎 
軍曹 服部良策  
同  中沢留吉      
同  佐々木平吉 
同  榊原吉一  
 
・中沢軍曹は徳之島に敵戦闘機の攻撃を受け不時着して生還。「6/7 万世ヨリ出撃、未皈還ト報セラレタルモ 6/30 奄美大島ニ生存シアリ、経緯不詳」 (振武隊異動通報 第四号より) ・久木田大尉は6月10日大尉に進級。飛龍荘で少年飛行兵の生還者を監視、  所属敵機動部隊北上の際は特攻生還者を第三十二攻撃隊に所属させて これを指揮し、出撃する事になっていた。(陸軍特攻「振武寮」あとがきより)

原町特攻隊 神州隊史 ③隊員について

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歩兵第二百十四連隊「白虎部隊」部隊章について

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歩兵第ニ百十四連隊
浜田準之助中佐(のち大佐、二代目連隊長)の発案とされる。
昭和14年3月、当連隊は若松歩兵第二十九連隊留守隊において編成された。
この編成間近の頃、予備士官学校の教育を修了して原隊に復帰した阿部知幸見習士官(当時)は、連隊本部附の某中尉殿に「見習士官は東京の高等師範出で、絵を描くそうだな。略帽の星章の上につけるんだが、部隊のマークを『虎』でつくってくれ。急ぐんだ。」とのこと。参考にと渡されたのは若松市内か東山温泉辺りの土産物と思われる日本画風の虎の絵を描いた布。「金属板で、まる型のもの」と指定され、阿妻見士は天空に吠える頭部のマークを考え、金属で、ということで七宝製と決め、白虎の意図がわかったので(白虎隊にちなんで、と説明があったものと推察)輪郭は七宝の地金をいかし虎は白とした。また、白虎をいかすため周囲は紺青(ウルトラマリン)と指定し、ニ時間程度で完成させた。
部隊の出発は四月三日。それまでに何千個かのマークができ、一人一人に配られ、略帽の星章の上に縫い付けられた。という。また阿部見士は「白虎のマークを部隊の標章と決定された連隊上層部のアイデアを素晴らしいものと思い、今なお、敬意とともに高く評価している。そして、このマークをつけた帰らぬ戦友の多いことを思い、なき戦友の冥福を祈る気持が、私なりにひとしお深いのである。」と回想していいる。以上連隊史「白虎マークの思い出」より。

歩兵第二百十四連隊史より


この度完成した再現品(この時点では研磨及びメッキの加工をしていない)
















部隊章製作顛末
この部隊章製作にあたっては、以下の2業者様の御協力があり完成したものです。
G-IRON  SILVER WORKS  埼玉県加須市
金魚七宝店 神奈川県川崎市

※  ※  ※
1 構想
構想は既に中学生の頃手にした「若松聯隊写真集」と「ビルマ戦線と風俗漫画集 会津若松 白虎部隊」(慰霊碑にある部隊章デザインが掲載されていた)を見て、いつかは・・・という気持ちがあった。徽章製作会社ロット数がないと単価にして五万円前後という恐ろしい金額であり、諦めていた。まだこの時点では、慰霊碑の部隊章は正確ではないことを知らなかった。

2 聯隊史の入手と詳細な写真との出会い
聯隊史を偶然入手した。「3000円程度なら」と、たまたま買ってみた。
内容を見ると、部隊章の詳細な図案が掲載されている(それでも2センチ未満だった)
しばらく実家に放置し、仙台方面に出張の折、帰省して久しぶりに読んでみる。すると、前掲の「白虎マークの思い出」の記事を発見する。また、これと同時期に自衛隊駐屯地の資料館で詳細な写真を確認することなり、製作可能か調べ始める。

3 徽章店はダメ、彫金は?エッチングは?
大体1円玉程度の大きさと決め、業者に問い合わせ始める。
最初は彫金屋。「ここまで細かいのは無理。サイズは大きくできないのか」ということで×。エッチングは七宝向きではないということで×

4 業者との出会い
方々問い合わせしているうちに、自分のシルバーのペンダントを見て、個人向けシルバーアクセサリー業者に問い合わせる。その業者に、再現で正確に作るなら、ロストワックス製法というのがある。3Dプリンターによって蝋で原型を作り、これを鋳造の型にするということで、G-IRON SILVER WORKS 様をご紹介いただいた。

同時期に、七宝屋の意見を聞かないと地金製作の依頼ができないと思い川崎の「金魚七宝店」に問い合わせる。
地金の指定事項として材質は純銀(シルバー925などは割れる可能性あり)で、発色や加工性も考慮して厚さ1.6ミリ、彫の深さ0.6ミリとした。七宝絵具については現在製造していない、発色の良いものとのこと。
両業者様には、こちらの熱意を汲んでいただき、大変丁寧かつ詳細に至るまで調整していただいた。(G-IRON SILVER WORKS様は、手彫りで特に「垂直彫り」は得意との事。)

●製作の流れ
図面製作とサイズの指定~ワックス原型製作~鋳造~修正~研磨~七宝店へ発送~七宝店側からの地金修正依頼~地金製作側に修正依頼~七宝店へ発送~色入れ(白)~色入れ(青)~研磨~メッキ(ニッケル)


※純銀製品は、傷つきやすいため通常はメッキで保護する。装飾品にはアレルギー性は少なく、皮膜強固なロジウムメッキを使用する。ニッケルメッキは安物の加工をするためのもの(我々の日用品には多く取り入れられている)で銀の価値を下げることになる、とのこと。しかし、ロジウムメッキにはリスクが伴うためどこの業者でも断られた。元々が装飾品ではないし、地金は多分銅に銀メッキを施したものであると考えるため、ニッケルメッキでお願いすることにした。
メッキ完了し、手元にとどいたのがこちら。


皆様、有り難うございました。白虎の部隊章と共に、214連隊他、若松編成部隊の歴史を探求し続けていきます。




小田山忠霊堂におけるガ島忌

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報道された記事



雪の会津



忠霊堂内の祭壇で献花と焼香が行われた


私が献花した白菊






忠霊堂内の御遺骨の収容状況









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防衛召集参考

東部第24部隊戦没者慰霊祭 (留魂砂趣意書)

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ふくしまの戦争資料室

ふくしまの戦争資料室
ふくしまの戦争資料室



この写真1・2は若松連隊の敷地に隣接した練兵場で行われた、ガダルカナル島戦で戦死者の慰霊祭です。







写真1は慰霊祭において補充隊長が弔文を読んでいるシーン。


写真2は参列者席から見たところですが、奥に見える箱は戦死者分だけ用意した白木の箱です。遺族の方々は余りの多さに絶句したことでしょう。準備のために東部二十四部隊所属だった方は「留守隊はまるで戦場のようでした。二千余の白木の箱に涙の捧げ銃をする間もなく、慰霊祭の準備、白木の箱への名前書き…白木の箱に名前を書くだけでも一週間ほどかかりました」(福島戦争と人間)との証言を残しています。

写真3は合同葬儀といったところでしょうか。場所は不明ですが雪中練兵場でしょう。


さて本題の「留魂砂趣意書」についてですが、よく戦記に「戦死者の遺骨は還らず、遺族に渡された白木の箱の中に入っていたのはなんと砂だった」などど書かれることがありますが、これに付けられた説明書が本品となります。

ふくしまの戦争資料室




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平和のための戦争展ふくしま

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「こんな展示じゃ・・・俺がやらなきゃダメだっ・・・」と決意した中学時代の夏を思い出させてくれる展示会。良くも悪くも私の出発点でした。







敢えて内容に関して感想は言いません。難癖つけるのは簡単だが、非難して得られるものは無いじゃないか。
むしろ資料を求める者にとっては地元グループとのパイプも必要と痛感しました。

南京大虐殺と反原発、信夫山の地下工場、渡利の模擬原爆がメインの展示です。
日中友好教会が主催、メンバーは日教組の退職教員のようです。


【収穫】
この部隊は南京まで行ってますから、と言われて見せられた写真張は昭和17年ごろの歩兵第六十五連隊の写真帳ではないか!お願いしてコピーさせてもらいました。父島某事件で有名な立花芳夫連隊長や桜井徳太郎連隊長の写真もあるぞ!感謝感謝!

余るからと大量にもらった資料












Android携帯からの投稿

歩兵第六十五連隊の軍装(調査メモと再現)

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大東亜戦争期の歩兵第六十五連隊の軍装(部隊章)について、長らく不明でしたが、数少ない自費出版本を漁り、著者に取材し、何とか突き止めました。

各資料の所見

①「歩兵第六十五連隊いち兵士の手記」の写真
・略帽に金属星章が散見
・防暑襦袢の中に夏襦袢を着用している者あり
・時期的に多くが九八式軍衣
・将校、兵共に右胸物入れ上部に2センチ角程度の布片(※)を確認

②「戦塵と宣撫」の著者の写真
・昭五式冬衣に軍曹襟章
・右胸物入れ上部に下から略綬3連、第2ボタンの高さ、水平2×10センチ程度の記名布(右から毛筆書き)を縫い付け、その上端に接するように2センチ角程度の布片(※)を付している。

③NHKの戦争証言アーカイブで見た証言中「白虎部隊は紫色」と言っている場面あり。

④②の著者への取材結果、上記「2センチ角程度の布片」は紫色の布で、師団隷下部隊(兵科別ではない)で色が異なっており、六十五連隊は紫色であったとのこと。



・三年以上在籍した者は長期奉公章を胸に付していたという。(十一軍隷下のため間違いは無いが、確認出来る写真資料なし。)

→若松連隊写真集に掲載あり。昭和18、沙市にて。










・白虎部隊は精強で、中国兵も紫色が白虎部隊だと知っていて逃げ出した。大阪の連隊だと途端に迫撃砲弾が打ち込まれた。(商人に化けた密偵が出入りしていて情報は筒抜け)

・紫色の布については軍衣に縫い付けであったとのこと。写真でも台座らしきものは認められない。
※台座を附けた者もたまに居る。個人ごとの工夫だから全く問題なし。
※1名、部隊章に番号を書いた兵を発見したが、写真全員ではなかったので分隊規模の統制ではなかろうかと推察する。


・色味については青みががった紫色とのこと。
※写真を見ると、かなり明るい色をしている。これは直射日光による色抜けか。

・素材については木綿。連隊本部から切った状態で渡された。四つ角を折り込んで自分で縫い付けた。

再現品を示す。水を通して、暫く日光に晒している。






以下は、「いち兵士の手記」より




以下、「重機」より









右胸に付いた徽章は呂集団戦傷徽章。
私は、十一軍隷下の部隊の負傷者に与えられたと考えている。授与の基準は不明。
銅に七宝加工の、作戦軍独自の徽章にしては豪華なつくりである。古代楯を四方に配した意匠は、傷夷軍人記章を元にしたのであろうか。
16年頃の写真に、帰還した兵が東部二十四部隊内でも著用したものがある。野戦帰りとして神様扱いをされたのではないだろうか?





上記の調査結果を再現してみる。




軍衣は九八式、17年製、6号
略帽は16年製、小号
階級章は座蒲団型実物
徽章は11軍戦傷徽章実物
・部隊章と名札は大きめに見えるが写真と比較してボタンや階級章の比率からみると問題ないようだ。

・名札「藤田五郎」は新撰組知ってる人なら分かりますよね( ´∀`)
一応息子が65連隊(旧)に入営していますし、無関係ではないでしょう(笑)




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