昭和13年制 兵科章 歩兵科
将校用防暑衣袴
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戦前の会津における反戦活動に学ぶ~若松二十九聯隊を中心に~
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歩兵第六十五連隊の軍装(調査メモ)
各資料の所見
①「歩兵第六十五連隊いち兵士の手記」の写真
・略帽に金属星章が散見
・防暑襦袢の中に夏襦袢を着用している者あり
・時期的に多くが九八式軍衣
・将校、兵共に右胸物入れ上部に2センチ角程度の布片(※)を確認
②「戦塵と宣撫」の著者の写真
・昭五式冬衣に軍曹襟章
・右胸物入れ上部に下から略綬3連、第2ボタンの高さ、水平2×10センチ程度の記名布(右から毛筆書き)を縫い付け、その上端に接するように2センチ角程度の布片(※)を付している。
③NHKの戦争証言アーカイブで見た証言中「白虎部隊は紫色」と言っている場面あり。
④②の著者に取材したところ、上記「2センチ角程度の布片」は紫色の布で、師団隷下部隊(兵科別ではない)で色が異なっており、六十五連隊は紫色であったとのこと。
・三年以上在籍した者は十三師団長期奉公章を胸に付していたという。(呂集団のものは確認したが、同じく盾型という)
・白虎部隊は精強で、中国兵も紫色が白虎部隊だと知っていて逃げ出した。大阪の連隊だと途端に迫撃砲弾が打ち込まれた。(商人に化けた密偵が出入りしていて情報は筒抜け)
・紫色の布については軍衣に縫い付けであったとのこと。写真でも台座らしきものは認められない。
・色味については青みががった紫色とのこと。
・素材については木綿。連隊本部から切った状態で渡された。四つ角を折り込んで自分で縫い付けた。
東部第111部隊(岩沼~郡山)
先日の東部第66部隊の記事と画像がかぶりますが、東部第66部隊が若松に移転した後、昭和18年9月に宮城県岩沼市(玉浦村?)から東部第111部隊が郡山に移駐してきました。この資料によれば、第12航空教育隊とのこと。
戦後は兵舎が郡山第六中学校の校舎として利用された。(同校ホームページより)
東部111部隊衛生部と思われる将校の写真を見つけたので、許可を頂き転載させて頂きます。【イラストレーターであるKumiko Sasakiさんのブログより】
【所見】
1、航空胸章と兵科章の併用ということで、経理・衛生・技術部のいずれかとなるが、色の濃さより深緑色の衛生部と推定
2、以下(1)(2)(3)の理由により、昭和19年5月以降、兵科章は改正前のままで、所属は本部附の軍医かと推定する。
と思われる。
(1)昭和18年10月の服制改正で、兵科章(各部)は襟章下部の識別線に改正となっている
(2)航空胸章は元々“兵科”の将校しか付けなかったが、昭和19年5月の改正で、航空関係部隊の各部将校以下~学校勤務者・生徒全てが着用した。
(3)隣接した郡山の陸軍病院は着用しなかったと思われる。
4肝心の部隊章については、画像から、将校用外套絨のような生地に、黄色糸での刺繍か、羅紗で「東111」と表示されている。羅紗の打ち抜きは金型が必要なため、「東」のような複雑な漢字は当時可能であったか疑問である。刺繍ならば再現も可能なことだろう。(※49師団の「朝○○」部隊の部隊章は刺繍であった。)
(※下士官以下は他部隊に現存するような、織り出しの隊号章を衣袴絨や脚絆絨にミシンがけしたものを配布したのだろうか。しかし、これはあくまでも想像。)
※郡山では“軍都”指定のため軍隊誘致活動に積極的で、海軍航空隊の教育部隊も置かれていました。郡山第三航空隊跡地は陸上自衛隊郡山駐屯地になっています。
東部第六十六部隊
歩兵第六十五聯隊戦死者遺品
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昭和期の戦争資料展
「傳」七十二師団部隊章の再現
【この記事には確証がありません。推測になりますことをお許しください。】
第七十二師団~傳(でん)兵団~は昭和19年、仙台にて編成完結。本土決戦兵団の一つとして司令部を福島市内に置き、信・達地方の学校等に隷下部隊を配置した。
本土決戦時は仙台湾の防衛または北関東方面にも進出予定であったとのこと。
この部隊の部隊章は、「日の丸に決の字」(通称マルケツ)である。数少ない資料を照合し、体験記の著者にもインタビューしたが、細部は謎であった。
先日、保原町郷土文化資料館発行の終戦記念展示の図録を図書館で複写してきた。
このブログ管理人「伝3377」 の由来たる、第七十二師団隷下、野砲兵第七十二聯隊の第二大隊本部の集合写真が掲載されていたからである。
(野砲72連隊の兵舎は、伊達市保原町、福島県立保原高校の前身、保原中学の校舎であった。聯隊長は陸士37期の岩本東三中佐)
この写真の胸部を拡大して良く見ると、輪の中に決と書いた図案であるようだ。
しかし、まだまだ調査不足である。
考証のため、再現品を製作してみたので掲載する次第。
伊達市のT氏(百五十五連隊第十一中隊、一等兵)のインタビューでは縫い付け式であったとの事だが、
将校団の写真では、小ボタン(白貝製)で留めているようである。
本再現においては、このためのループを付している。
表面、白色木綿に朱肉と毛筆書き。実物は染めてあったとのこと。業者に委託したのか、あるいはステンシル的な手法で部隊で製作されたと推測する。
先のT氏の証言では部隊章を染めた布片を自分で折って縫い付けたということだ。
裏面はあくまで憶測による。確証はない。
当時若松にいた、梁取三義氏の「二等兵物語」には
「日の丸部隊」の記載がある。
小野町芸術文化団体連絡協議会「おのぶんか~特集:小野町における大東亜戦争」所収「伝3375部隊と私」より