最近のメディアの特攻隊の捉え方は酷く極端な印象だ。『特攻兵の幸福食堂』は、途中で見るのをやめてしまったし、今後同名の書籍を手に取る事は一切ないと思うが、(後日放送されたNHKのドキュメンタリーは非常に良作で目を疑った)『不死身の特攻兵』なる、ただただ他人の本を引用しただけの独自性の欠片さえ見いだせない書籍のベストセラー化で、日本陸軍の『暗部』の存在とされてしまい、Twitterなんかでは跡地に別の建物が建ニュースには「証拠隠滅」など、憎悪に固まったコメントが並んでいる。
私の調べている隊にはここに入った隊員はいない(1名カスっているようだが詳細不明。終戦時は万世にいる)ものの、少し興味はある。
私は振武寮の調査は一切行っていないが、作家の林えいだい氏から頂いた『振武隊編成表』を見ていくと、
21振武隊に9
22振武隊に5
30振武隊に6、
38振武隊に4
65振武隊に7
67振武隊に5
76振武隊に2
111振武隊に1
112振武隊に1
計40名の隊員の備考欄に「在福岡」という直筆での記載が見られる。倉澤参謀の手持ち資料という話も聞くので、決と号作戦のために鉾田に転出する前までの記入かと思う。
(防衛研究所にも保管されているがコピーのみ。原本は存在せず。)
これ以上深入りはしないつもりだが、上記部隊のうち、機体を失って生還した隊員がどの程度いたか判明すれば振武寮に入った人員の傾向が見られるのではないかと思う。
以下は私の勝手な考察なので違ければお許し頂きたい。
1、飛行機が無事な者は再出撃を命じられる。振武隊終結はかなり遅れており、その掌握に六航軍は大変な思いをしていたことと思われる。その中でわざわざ福岡に拘置されるのは、飛行機を失った隊員ではないか。
2、「と」号部隊(特攻隊)は六航軍直轄部隊として運用されており、出撃にあたって第六飛行団 第三攻撃集団 等 に配置され「第〇攻撃隊」と言う作戦行動に合わせた編成を命ぜられて出撃することになる。(可動機が少ない場合や残員を出撃させる場合など各振武隊員が混成となる。機種も合わせているものと思う・・・・「俺は君のためにこそ死ににいく」で、他の隊の残員だった窪塚くんの例と言えばわかるでしょうか?)人事上は六航空軍直轄のと号人事班が直接管理していた。このため、飛行機を失った隊員が航空軍の管理下に置かれるのはごく自然なことと考える。寮内の扱いがどうであったのかは別の話ではないかと思う。
私はこのように考えており、史実を探求したい方は、一人一人の経歴、飛行機の状態等を丹念に追っていく必要性が生じてくる。1、2の例で断言できるほどお手軽な代物ではないのだ。
結構前だが、特操2期のご遺族から振武寮日誌はじめ7冊のノートをお借りして全てスキャンした。私が知りたかったのは別のノートで、六十四振武隊の目達原出撃の光景の書かれているものだった。振武寮日誌他は知覧の平和会館にデータを送り、後日現物を借りて調査されたと聞く。立派な考察を加えてくれるに違いないと思っている。