歩兵第二十九聯隊 軍旗御写真
歩兵第六十五聯隊戦死者遺品
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歩二九 第九中隊長 牧田幸夫中尉 ガ島戦死者
歩兵第29聯隊第3大隊第9中隊長として出征、ガダルカナル島にて戦死、享年23歳
北海道室蘭市の出身、陸士54期卒、連隊旗手を経験し、9中隊長となる。昭和17年10月24日行われたルンガ飛行場への第一次総攻撃で、歩兵第29聯隊は午後11時過ぎに第11中隊(勝股大尉)が突撃、この約15分後に第9中隊(牧田隊)が突撃、突撃発起後約5分の間に米軍機関銃と地雷によって制圧され、牧田中尉は米軍鉄条網を越えた約100メートルの地点で、部下隊員二名に挟まれる形で遺骨が発見されたという。
中隊の部下も一人を除く全員が戦死し、その生存者新国軍曹は会津若松市の小田山にある大林寺住職として戦後の慰霊活動に貢献された。
幸夫氏の父である末吉氏は部下の氏名全てを調査して戦中~戦後にかけその墓参を実施し、遺言通り、昭和46年遺骨収集団により幸夫氏戦死の地にたてた慰霊碑の下に一緒に納骨された。
【軍装について】
帽…クラッシュ式或いはチェコ式と呼ばれる襠高の軍帽、目庇は額に張り付くような急な角度である。
襟元…補充隊たる東部第24部隊を示す隊号章と少尉襟章
軍衣…青年将校流行の型で大変スマートに見える。
刀…指揮刀に平織刀緒を付す
靴…茶革の長靴
※参考資料※
ふくしま戦争と人間2
陸軍の反省(上)
ガダルカナル島戦の核心を探る
紫雲
小田山忠霊堂におけるガ島忌
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東部第六十六部隊 郡山郵便局屋上対空機関銃写真
鎮魂譜 両角部隊の光と影
福島市史別冊Ⅵ 杉妻村 海軍技術廠の話
昭和十八年七月、精密機械兵器の生産に携わるサクラ計器株式会社が黒岩に進出し、昭和二十年一月には、神奈川県横須賀市の第一海軍技術廠が疎開して、福島出張所を設け杉妻村国民学校の一部を借用することとなり、国民学校南方高地を利用して分散廠舎を建造した。
福島市史別冊Ⅵ 鎌田村 伝部隊の話
福島市史別冊Ⅵ 瀬上村 伝部隊の話
…学校に「伝三三七八部隊」の工兵隊が入ってきて、昭和二十年八月の敗戦の日を迎えた。
(詳細は瀬上小学校百年のあゆみを参照)
福島市史別冊Ⅵ 平野村 伝部隊の話
(平野村国民学校 昭和二十年)
七月十日には伝三三七五部隊の師団司令部が学校に入り、講堂および西三教室は接収された。講堂は軍用荷物置場となり一〇名位の兵が常駐した。
終戦により、八月二十一日、軍隊は退去した。
福島市史別冊Ⅵ 湯野村 伝部隊の話
立上がった青年たち
重大ニュースを聞いたのは昭和二十年(一九四五)八月十五日、たまたま湯野国民学校では勤労奉仕に集まっていた生徒たちと、校舎の一部に駐留していた伝部隊の軍人たちであった。
正面玄関前に整列してラジオをきいたのだが内容は不明であった。終戦の詔書であるとわかったのは、伝部隊からの通報によったものであった。
戦後処理ということは、見るもあわれであった。勝つまではと思って開墾した校庭の畑を地均しして遊び場に直し、暮坪の裏山に掘った防空壕も入口をふさぐなど、次つぎに連絡されてくる指令に対して一つ一つがこれが事実なのかと考えさせられるほどであった。
一早く解散したのが伝部隊、やがて疎開学童も東京へ帰っていくと、はじめて町は我に帰った。
昭和二十二年十二月、新生青年団の再起が考案された(中略)伝部隊が残していった木造の飯場(建坪五〇坪)を改造して炉端のある公民館の教室とし(後略)
福島市史別冊Ⅵ 東湯野地区 伝部隊の話
終戦処理の第一として、橿原神社の裏山につくられていた伝部隊(伝三三七〇部隊)本部兵舎といわれる木造二棟(合計一四三坪)は、一部無償であったが払下げられ解体された。(東湯野概史)昭和二十一年の事であった。
福島市史別冊Ⅵ 飯坂村 伝部隊の話
七月十日の前後に、近所の小学校には歩兵第百五十五連隊、いわゆる伝部隊が警備のため配置された。やがて間もなく、敗戦となるのである。(中略)配置された伝部隊がまっさきに解任されて帰っていき、毎日夜続いた対空監視の役目がなくなった。
宮城県岩沼市史 伝部隊の話
二十年四月にもなると、岩沼小学校を始め、岩沼周辺の各小学校の校舎の一部には、本土決戦に備えた陸軍部隊(伝部隊)が駐屯し、二の蔵から閖上、蒲生に至る海岸線には、米軍の上陸に備えた第一線部隊が配備された。しかし、兵隊の中には小銃をもたない丸腰の兵隊もいた。また、千貫から愛島、高館にかけての高地には、防空監視所や対空機関砲陣地などが設けられたが、八月に入って、広島と長崎に原爆が投下され、次いでソ連が対日宣戦布告をして、満州、朝鮮に侵攻してくるに及んで、遂に日本も戦争継続を断念し、八月十五日、ポツダム宣言を受諾し、戦争は終った。
国民は一様に、肩の荷をおろしたような感じであった。思えば、不況に明け、戦争にくれた、長い悪夢のような昭和前半期であった。
戦争を知らない世代への手紙 「戦中の生活」より抜粋 伝部隊
二本松に伝部隊と称する兵隊がお城山と旧制安達中に駐屯していた。箕輪門前の通りは桜並木が見事であった。しかしそれらの桜は兵隊が馬に乗るのに邪魔だという理由で根元から全部切られてしまった。その道だけを、馬から降りて通ればいいのにと怒りを感じた。桜花の咲いている時期の事なので思い出す。
放出資料の情報
重複または不要資料につき、必要な方にお譲りします。
若松連隊全史(希少)
ガダルカナル島戦の核心を探る 勝股治郎
遥かなり雲雀が原(原町飛行場)
嗚呼原町陸軍飛行場
紫雲 連隊旗手古澤清重(二十九連隊)
陸軍の反省(上下揃い)
ラバウル戦線異常なし(草鹿任一)
ビルマ助っ人部隊(上下揃い)
陸軍航空隊全史(木俣滋郎)
若松連隊写真集
戊辰の内乱(星亮一)
ご所望の資料名を明記して、メールもしくはコメントをお願いいたします。
鎮魂譜 両角部隊の光と影 後日譚
「傳」七十二師団部隊章
【この記事には確証がありません。推測になりますことをお許しください。】
第七十二師団~傳(でん)兵団~は昭和19年、仙台にて編成完結。本土決戦兵団の一つとして司令部を福島市内に置き、信・達地方の学校等に隷下部隊を配置した。
本土決戦時は仙台湾の防衛または北関東方面にも進出予定であったとのこと。
この部隊の部隊章は、「日の丸に決の字」(通称マルケツ)である。数少ない資料を照合し、体験記の著者にもインタビューしたが、細部は謎であった。
先日、保原町郷土文化資料館発行の終戦記念展示の図録を購入し、拡大で複写した。
このブログ管理人「伝3377」 の由来たる、第七十二師団隷下、野砲兵第七十二聯隊の第二大隊本部の集合写真が掲載されていたからである。
(野砲72連隊の兵舎は、伊達市保原町、福島県立保原高校の前身、保原中学の校舎であった。聯隊長は陸士37期の岩本東三中佐)
この写真の胸部を拡大して良く見ると、輪の中に決と書いた図案であるようだ。
しかし、まだまだ調査不足である。
考証のため、再現品を製作してみたので掲載する次第。
伊達市のT氏(百五十五連隊第十一中隊、一等兵)のインタビューでは縫い付け式であったとの事だが、
将校団の写真では、小ボタン(白貝製)で留めているようである。
本再現においては、このためのループを付している。
表面、白色木綿に朱肉と毛筆書き。実物は染めてあったとのこと。業者に委託したのか、あるいはステンシル的な手法で部隊で製作されたと推測する。
先のT氏の証言では部隊章を染めた布片を自分で折って縫い付けたということだ。
裏面はあくまで憶測による。確証はない。
当時若松にいた、梁取三義氏の「二等兵物語」には
「日の丸部隊」の記載がある。
小野町芸術文化団体連絡協議会「おのぶんか~特集:小野町における大東亜戦争」所収「伝3375部隊と私」より
伝3375部隊(歩兵第155連隊)通信中隊所属の二等兵の写真を見つけたので掲載する。
左側の布片は中隊独自の識別章と思われるが不明。「○に決」の「○」は「●」ではなく、まさしく輪郭線のみであることがわかる
右胸の四角い布は、個人の苗字などが書かれているものと推察。(他部隊での例による。縦書きであった。)
もしくは、中隊を示すものだろうか。