144振武隊 松浦喜一少尉
日常の中の戦争遺跡 國華隊と八尾市
大阪のある市民団体に問い合わせたところ、こちらの資料をご紹介頂いた。団体名はあえて伏せますが、ご協力いただき有り難うございました。
以下、出版社のホームページより転載
旧陸軍航空兵力の一大拠点「大正飛行場」(現在の八尾空港)など、大阪府八尾市周辺に遺された戦争遺跡の数々を調査・分析し、戦争の真実と実相を明らかにする。
● 目次●
はじめに
序 ふるさと八尾 戦争と戦争遺跡
聞き手 小林義孝…
帝国陸軍大正飛行場
1 旧陸軍大正飛行場
2 大正飛行場飛行第二四六戦隊戦闘指揮所
3 第一一飛行師団司令部(防空戦闘)
4 第一一飛行師団司令部(作戦室)
5 大阪陸軍航空廠
大正飛行場の風景
6 大正飛行場の水濠
7 大正飛行場の官舎と合宿舎
日常生活に見える戦争の痕跡
8 軍用予備滑走路―府道八尾枚方線
9 掩体壕と誘導路―垣内の掩体壕
10 恩智山中にあった射撃場
「防空都市」づくり
11 大阪東部地域の防空施設
12 八尾配備の防空兵器
13 対空監視哨
14 戦時防空緑地―久宝寺緑地
空襲の被害
15 強制疎開―八尾表町・近鉄旧八尾駅前他
16 防空壕・待避所
17 八尾の空襲(昭和20年1月~7月
18 八尾の空襲(昭和20年7月~終戦)
「本土決戦」の幻想
19 「本土決戦」と軍備
20 戦時下の松根油事情
あとがき
戦争遺跡を綴る
「日常の中の戦争遺跡」を読む…小林義孝
地域史としての大正飛行場に学ぶ…小谷利明
大正飛行場のこと…駒井正明
もうひとつの戦跡─記憶遺産としての将校官舎…浅野詠子
古代の国防遺跡…棚橋利光
「語り継ぎ部」の育成と戦争遺跡…常本 一
『日常の中の戦争遺跡』に接して─大阪府八尾市周辺の戦争遺跡─…島村晋次
装丁 森本良成
●著者プロフィール●
大西 進(おおにし すすむ)
1940 年(昭和15)、大阪府八尾市黒谷で生まれる。現在も同地に在住。
1959 年(昭和34)、大阪府立八尾高等学校卒業。
1963 年(昭和38)、大阪府立大学農学部卒業。
1963 年(昭和38)、近畿日本鉄道株式会社に入社。その後、近鉄不動産株式会社で宅地事業・観光開発事業に従事。
2002 年(平成14)、常勤監査役で退職。
2003 年(平成15)、厚生省の遺骨収集団の一員として父親が戦死したニューギニアを訪問。それを契機にして、故郷八尾の戦争と戦争遺跡の調査をはじめる。
現在、河内の戦争遺跡を語る会代表、『河内どんこう』編集委員。
主な著作
「戦争遺跡を訪ねて1~ 19」(『河内どんこう』79 ~ 97 号2006 年~ 2012 年)
「河内の戦争遺跡」(『河内文化のおもちゃ箱』批評社、2009 年)
「八尾に残る戦争遺跡」(『大阪民衆史研究』65 号、2011 年)など
【許可済】國華隊尾翼マーク
広瀬准尉 生駒山での墜落事故を追う ~大阪府立図書館よりの回答
【回答】
この度は大阪府立図書館e-レファレンスをご利用いただきまして誠にありがとうございます。
大阪の地域史料を担当しております大阪府立中之島図書館大阪資料・古典籍室より回答させていただきます。
調査しましたが残念ながら見つけることはできませんでした。
なお、現八尾飛行場は当時大正飛行場の名称でした。
掲載されていなかった資料は、以下の通りです。
『朝日新聞 大阪本社版』 昭和20年5月26日~6月3日 (オンラインデータベース聞蔵2 より)
『鉄道・航空機事故全史』 (日外選書Fontana シリーズ災害・事故史 1) 災害情報センター編 日外アソシエーツ編集部編 日外アソシエーツ 紀伊國屋書店(発売) 2007.5 【686.7/36N/】 大阪府立中央図書館所蔵
『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』 林えいだい著 東方出版 2007.3 【210.75/680N/】 大阪府立中央図書館所蔵
『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』 大貫健一郎著 渡辺考著 講談社 2009.7 【210.75/749N/】 大阪府立中央図書館所蔵
『昭和は遠く 生き残った特攻隊員の遺書』 松浦喜一著 径書房 1994.6 【916/942N/】 大阪府立中央図書館所蔵
『よろづよに 最後の陸軍特攻基地 再版』 苗村七郎著 民芸閣 1975.8 【916/3194N/】 大阪府立中央図書館所蔵
『日常の中の戦争遺跡』 大西進著 アット・ワークス 2012.6 【216.3/916N/】および初出にあたる文献20論文
大正飛行場(現八尾飛行場)の歴史とできごとなどを掲載しています。
『戦争はあかん!庶民の記録 第1集 (ピースメモリーブックレット)』 金岡公園ピースメモリークラブ 2003.9 【210.75/538N/1】
『戦争はあかん!庶民の記録 第2集 (ピースメモリーブックレット)』 金岡公園ピースメモリークラブ 2003.10 【210.75/538N/2】
『石切さん 現代編』 木積一仁著 神道石切教本庁出版部 2000.10 【178.9/20N/】
生駒山麓の石切にある石切劔箭神社代表の昭和史
『八十年の歩み 東大阪市立石切小学校』 東大阪市立石切小学校]昭和41年度PTA 1968.2 【376.2/84N/】
卒業生の思い出の手記あり
『東大阪市立石切小学校創立100周年記念誌』 東大阪市立石切小学校創立100周年記念事業委員会・編集委員会編 東大阪市立石切小学校創立100周年記念事業委員会 1985.12 【198.9/155/#】
同上
『東大阪市史』 『東大阪市史資料』 東大阪市史編纂委員会編集 東大阪市 1973-
『枚岡市史 1-4巻』 枚岡市史編纂委員会編纂 枚岡市史編纂委員会 1965-1967
また、当館では、耐震補強工事のため新聞のマイクロフィルム、縮刷版等を少なくとも今年12月までは見ることができません。
インターネット上の情報で以下のサイトを発見しました。
福島の戦争資料室 http://ameblo.jp/momomomospring/theme-10078295018.html
「大正飛行場滞在時、廣瀬准尉、隊長機の試験飛行中生駒山に墜落する事故発生、空中より偵察の結果、負傷しているが生命は無事とのことで木幡少尉以下下士官一名を差し出し飛行場大隊の車で収容。飛行機は大破、廣瀬准尉は終戦まで陸軍病院に入院し原隊復帰ならず。」
ただし、出典等の記載はありませんでした。
また、「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」というホームページhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/shinbutai_hensei-038.htmには、
第63振武隊のリストがあり、廣瀬氏は特攻で戦死していないことが表示されています。
(出典「本編成表は第6航空軍司令部(靖部隊)の参謀用資料です…」とあります。)
さらに資料としては、
『陸軍航空の鎮魂 第2版』 航空碑奉賛会編 航空碑奉賛会 1979.3 【583/675/#】 のp82
に「隊別・特攻戦没者名簿」として「隊名63 6.7 沖縄周辺洋上 難波晋作・後藤与二郎・宮光男・服部良策・榊原吉一・佐々木平吉」が記載されています。
また、国立国会図書館のレファレンス協同データベースでは、
岡山県出身の第63振武隊隊員についての調査結果が掲載してあり、
「吉備中央町出身で、昭和20年6月に万世陸軍航空基地から出撃した難波晋策・陸軍中尉について知りたい。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000099167
ただし、ここに掲載されている文献の所蔵がありませんでしたので内容の確認はできませんでした。
以上をもって回答とさせていただきます。
ご利用ありがとうございました。
広瀬准尉 生駒山での墜落事故を追う ~奈良県立図書館よりの回答
お尋ねの件にお答えいたします。奈良県立図書情報館の○○と申します。
『生駒市誌』、生駒民俗会発行のニュースレター「ふるさと生駒」1-50号及び記念誌、『生駒市遺族会創立50周年記念』、『花ひらく : ならの女性生活
史』や、
大阪側からの『日常の中の戦争遺跡』、『大阪大空襲に関するアメリカ軍資料』、を参照しましたが、関連する記載は見当たりませんでした。
『生駒市誌』によると、昭和20年6月15日に生駒市域に空襲があったそうです。
奈良県は比較的空襲被害が少なかったせいか、戦災についてまとまった文献や情報に乏しいです。
この、生駒山への墜落についても貴重な情報ですので、厚かましいお願いですが典拠をお教えいただければ幸いです。
広瀬准尉 生駒山墜落事故を追う~生駒ふるさとミュージアムからの回答
お問い合わせありがとうございます。
生駒ふるさとミュージアムです。
お問い合わせの件ですが、生駒市史等関連書籍を調べました結果、
当該記事等見つけることが出来ませんでした。
力至らず、申し訳ありませんでした。
また、引き続き調査させて頂きますので、
分かり次第、ご連絡させて頂きます。
広瀬准尉の生駒山墜落事故を追う~やお文化協会からの回答
やお文化協会http://www.yaobnk.com/から、ご回答を頂いたが、全く不明とのこと。調べずに回答したわけではなく、わざわざ「日常の中の戦争遺跡」著者である大西氏に聞いた上での回答であった。なお、大西氏からは、奈良県立図書館に資料がなければちょっと難しいとのことである
現段階における手がかりはゼロである。引き続き取材を続けることとする。
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國華隊 井上清軍曹
第四十五振武隊長 藤井一中尉
ふくしま戦争体験文庫 【第七十二師団】
第七十二師団
【消灯ラッパ】田中達郎 155連隊11中隊
【遠き想い出の数々】渡辺直隆 元・三春町長 72師団の編成関連
【二等兵物語】梁取三義 「日の丸部隊」の記述あり
【郷土の研究44号】国見町郷土史研究会 (野砲兵72連隊)
【郷土やながわ13集】梁川町郷土史研究会 (野砲兵72連隊)
【瀬上小学校百年のあゆみ】工兵72連隊 校舎半分が兵舎 図あり
【おのぶんか】小野町ふるさと文化の館
【不屈の輸送 下巻】輜重兵第二聯隊戦友会(輜重兵72連隊長の回想)
【戦争を知らない世代への手紙】二本松郷土史研究会編 輜重72連隊
【保原町史】 高子沼付近に伝部隊兵舎ありの記述
【岩沼市史】
【写真でみる大河原の歴史】72師団4野病 軍医野口真策氏の寄稿 写真
【大河原小学校史】 72師団第4野戦病院
【前橋陸軍予備士官学校戦記】155連隊
【宮城県の昭和史 下】伝3373部隊
【三春町史】 155連隊
【福島市史別冊Ⅵ】町史をまとめたもの
【図説戦時下の福島】福島県立博物館 二瓶保さんの寄稿 155連隊
【猪苗代の戦後五十年を回顧して】 二瓶さんの寄稿 上記と同文
【昭和期の戦争展】保原町郷土資料館 伝3377部隊の記述
【政経東北】昭和五十四年八月号 伊藤勇さんの投稿 浜通りに展開とあり
【宮城県の昭和史(下)】 傳3373部隊 岩沼 愛島小学校駐屯
【富岡町史 別巻 追記】伝3381(衛生隊) 伝3319(不明ながら3379の誤表記か)
【祖父母の語る戦争体験】 喜多方女子高の文集 155連隊
【戦争体験実録】逢瀬町史談会編 伝部隊 小野新町小学校 校舎が兵舎となる
【悪夢の戦い】内藤順 石神小学校に伝部隊の姿
原町特攻隊 神州隊史
第63振武隊、通称神州隊。
遥かなり雲雀原
昭和20年3月23日、第1飛行師団担任により編成
使用機種九九式襲撃機
隊長久木田清中尉
編成地及び訓練基地:原町基地
最終待機基地:万世基地
出撃:昭和20年6月7日
【沿革】
20.3末
・久木田中尉 特攻隊長を拝命。第1飛行師団付。
・飛行隊長より全員が(国華隊含むと推察)最期の休暇を貰い、近畿以西の隊員が帰省の為に双発高等練習機にて出発。(操縦者は国華隊の横田彦次郎軍曹?)
・休暇後、立川で飛行機受領。戦局がら、飛行機不足により2機、3機と数回に分けて受領した。
・訓練の重点は薄暮・夜間攻撃に置く。
・飛行機は、2・3機がいつも不調で困った。
【私生活】
・原町では営内居住者は料亭「魚本」(主人山本勘太郎)を宿舎とする。
・魚本主人山本氏は地元民から「カンちゃん」と呼ばれていた。
・久木田中尉は堀池カネ宅に下宿住まい、魚本に合宿するまでは廣瀬准尉・難波曹長は営外居住であった。
・高田少尉、宮曹長は恋人と仮祝言をあげて魚本の別室に同棲した。
※短い間ながら夫婦を独身隊員と同じ屋根の下に住まわせたのは、隊長の配慮に欠けると見る向きもある。(士官学校出の純粋培養の将校である。これもまた、致し方のないこと。)
・神州隊は、割合に恋人のある者が多くいたらしい。しかし、「自分は尽くすだけ尽くした」という感じで、割合にサバサバしていたという。(その心中は本人のみが知る)
・瀬戸物屋の古山さん宅にはよく遊びに行っていた。
・佐々木隊員は古山さんの娘テルさん(通瀬戸屋のテルちゃん)の電力会社の同僚と恋愛関係にあったようだ。
・佐々木隊員は、松永牛乳店によく遊びに来ていて、おかみさんの事を「お母さん」とよんでいた。
・服部隊員は魚本の近所の娘と恋愛関係にあったようだ。
20.4.19第1飛行師団から第6航空軍に所属変更となる。ということは「振武」の名称はここで付けるようになったのではないか。詳細は調査中。
20.4.21
難波曹長書簡より
「今日は町の婦人会の人々から我々に対し出撃に際し御苦労の意味にて宴会を催して下さいました。」(行寄池の光と影~岡山県吉備中央町)
左より、難波、佐々木、広瀬?沢田?榊原、服部、宮
20.5.15 ~20
相馬野馬追いの服装をして思い出作りをしてもらおうと考えた柳屋主人が、第六十四振武隊國華隊が下宿していた料亭柳屋に神州隊員を招いた。その柳屋の日本庭園で撮影された写真とのこと。写真は「あかねぐも」より引用。実際に甲冑姿での写真を撮影したそうだが、現存しているかは未確認である。國華隊の甲冑姿の写真はいくつか現存する。
原町を発つ前日
久木田隊長に尾翼マークを描いた相馬中学図画教員藤田魁氏ほか11名の生徒が招かれ、それぞれの機に分乗して相双の空を飛行した。
一番機は久木田中尉 藤田魁教員が同乗
三番機は難波准尉 椎名正生徒が同乗
「機中には、操縦席以外、邪魔物は全部取りはらわれていた。少しでも機体を軽くせんとの計画からだったろう。私共は機内でじかに尻をつきこしをかがめて乗っていた。」(藤田教員手記)
↑
※他部隊隊員の手記によれば、重心を前方にして衝突時の効果を上げるためとされる。
原町を発つ前日の晩
料亭魚本で町内有志が隊員をかこみ別れの宴を催す。
地元の日露役の勇士加藤軍曹が三尺の愛刀を久木田隊長に贈呈。
20.5.15
原町出発予定が天候不順のため延期となる。
榊原隊員の5月15日付書簡より
「小生五月十五日山口防府の飛行場に移動する様になりました。」(これについては不明)
20.5.24日(吉川誌に、難波曹長の原町出発日の俳句が掲載されているため。)
・ 原町から八尾市大正飛行場に転進。数日間滞在する。
・出発日には大勢の見送りがあったらしいが詳しくは不明。
・2機が機体不調で原町に戻った。しかし修理は早めに完了して出発できたようだ。以下は地元の方の証言によるが、恋人のいる佐々木平吉軍曹は、同じく機体修理中の服部もしくは堀口隊員を引き留めた。「もう一日引き伸ばしてほしい」と。2機は飛行可能であったが、二泊ののち本隊に追及することになった。夜、痛飲した二人が松永牛乳店を訪れて泣きながら、心中を吐露したという。
・整備雇員堀池時正氏は佐々木隊員の好物の枇杷を農家から貰って特攻機に入れてあげた。
↑↑
「嗚呼原町陸軍飛行場」のエピソードで、万世飛行場の出撃時の話として書かれているが、事実関係を調べたが飛行場近在の小作農家で原町飛行場に雇員として勤務していたとのこと。
「雇員(こいん)さん」と呼ばれ、よく農作物を差し入れしていたとのことである。したがって原町での話であろう。
(著者である森鎮雄さんはもと歩兵将校で金沢あたりで陣地構築をしていた~図説戦時下の福島より~原町出身であり、神職として慰霊祭関係者であるが、当時の飛行場には無関係なので、勘違いではないかとのこと。)
20.5.25
難波曹長、八尾の大正飛行場より郷土訪問飛行を敢行。
20.5.29~31?
大正飛行場滞在時、廣瀬准尉、隊長機(11号機)の試験飛行中生駒山に墜落する事故が発生、空中より偵察の結果、負傷しているが生命は無事とのことで木幡少尉以下下士官一名を差し出し飛行場大隊の車で収容。飛行機は大破、廣瀬准尉は終戦まで陸軍病院に入院し原隊復帰ならず。(「あかねぐも」より)
・この事故により、隊長機が広瀬機の13号機となる。11号機の無線機は回収されず、13号機は無線機非搭載のままであった。
20.6.1 一部隊員の進級発級
・陸軍准尉へ…廣瀬・難波
・陸軍曹長へ…後藤
・陸軍軍曹へ…榊原・佐々木
※5/1という説もあり(244戦隊ホームページより)
↑「難波准尉が将校の軍装一式を大阪偕行社で揃えて見せびらかしていた」という一文がある。(隊長手記より)
20.6.2
佐賀県目達原飛行場に前進、私物品の整理を実施。
目達原では、國華隊は西往寺を宿舎としたが、神州隊は近所の民家に宿泊したとみられる。
・知覧特攻平和記念館には神州隊寄せ書きマフラーが寄贈されているがこのときのものかは不明である。現物未確認につき情報求む。
20.6.4
鹿児島県万世、唐仁原飛行場に前進。
・國華隊 加藤俊二軍曹の6月5日付書簡より
「魚本の連中は昨日此の地を元気よく南に飛び立って行きました。小生達も今日か明日でせう。」(「原町戦没航空兵の記録」より)→目達原発は6/4で確実。國華隊とも接触があったことがわかる。
・木幡少尉、堀口曹長は目達原に残留(整備完了をもって万世へ前進予定であったと推察される。)宿舎は加世田町の飛龍荘。
会報「特攻」26号
特操2期 松浦喜一さんの回想より。
20.6.7朝
・出撃命令あり「本日薄暮、第六十三振武隊の全機をもって沖縄に攻撃をかけよ」
・隊長は木幡・堀口隊員の身寄りがなくなるのを慮り、全員が揃ってからでは、と具申したが可動の全機でやってくれと言われた。
20.6.7午後
飛行場で出撃の打合せ
・編隊形式をとらず、2~3機ずつ単縦陣をとって3方向を低空で接敵すると決定。
・出陣式挙行・使用機始動直前に空襲警報あり。爆装解除し爆弾のみ隔離。
・空襲警報解除(敵機は現れなかった)・再度爆装作業・16時50分~55分、7機が出撃、機体不調のため久木田中尉、高田少尉離陸できず。
以下の7機が出撃していった。
准尉 難波晋策
曹長 宮 光男
同 後藤與二郎
軍曹 服部良策
同 中沢留吉
同 佐々木平吉
同 榊原吉一
・直掩機なし、無線機なし(無線機搭載は生駒山中で大破した隊長機、小隊長たる木幡・高田機)、偵察機の戦果確認 なし。したがって、彼らがどのように散っていったかは知る術がない。
・中沢軍曹は徳之島に敵戦闘機の攻撃を受け不時着して生還。「6/7 万世ヨリ出撃、未皈還ト報セラレタルモ 6/30 奄美大島ニ生存シアリ、経緯不詳」(振武隊異動通報 第四号~244戦隊のホームページより)
・中沢隊員は、その後大島(古仁島)から海軍の水上偵察機によって軍司令部に帰還。
・久木田手記によれば、中沢隊員は、「なぜか」万世の原隊に復帰しなかった。
・久木田隊長は6月10日大尉に進級。飛龍荘で少年飛行兵の生還者を監視、 所属敵機動部隊北上の際は特攻生還者を第三十二攻撃隊に所属させてこれを指揮し、出撃する事になっていた。(陸軍特攻「振武寮」あとがきより)
20.7.10
航空総軍司令官 河邊正三大将より感状が授与される。(「吉川誌」より)
・関係者の話では、久木田隊長は終戦直前に原町を訪れたという。
出典「あかねぐも」久木田隊長の手記
「原町戦没航空兵の記録」遺書・書簡
「嗚呼原町陸軍飛行場」
「陸軍最後の特攻基地」
「花吹雪」第六集 尾翼マークについて
「244戦隊ホームページ」主に人事関係
「会報特攻」26号 飛龍荘における生活
「吉川誌」岡山県吉備中央町
「行寄池の光と影」岡山県吉備中央町
「陸軍特攻「振武寮」」林えいだい
「陸軍最後の特攻基地 」と万世の遺影
宮曹長の写真が、難波准尉の名前になっており、(これは間違いない)また、宮曹長の説明のところの写真は難波准尉ではないように見える。もしくは若い頃のものかもしれない。現在、万世の記念館に確認しているところ。
↑ほんとは宮曹長です。南相馬市博物館に、別アングルでの肖像写真がある。裏書きには宮さんのご遺族の名前が書かれている。
↑集合写真の宮さん。冬服であり、編成当初の集合写真だと思われる。私物戦闘帽に旧式軍衣袴と、充分な貫禄。
↑難波さんっぽい写真だが詳細は不明
原町での壮行会後?の飛行服姿の写真(飛行時計にリボンがついてる)だと、末期型の飛行服になっている↓(榊原さんも。)
こんなかんじ。
↑これが難波さん。頬がこけた渋い顔が特長。
原町戦没航空兵の記録に掲載された飛行服の写真も同様の顔。
これも難波さん。13号機は広瀬准尉の愛機。のちに隊長機となる。ちょっと違う表情だが、遺族から原町の慰霊祭事務局に提供された写真(のち南相馬市博物館に寄贈)は、裏書きには難波さんの名前が明記されている。
万世の展示で宮さんと表記されている写真ににているような。
(追記1)
職員さんにすぐに確認してもらったところ、展示室の遺影も同じ写真が使われていた。このため、南さつま市役所観光交流課に電話するように、とのことであった。
(追記2)
南さつま市役所観光交流課にメールしたところ担当者より電話あり。
写真の相違に気付いた経緯について説明したところ、ご遺族に確認して処置するとのこと。
また、進展があったらご連絡いただけることになった。
広瀬准尉の生駒山墜落事故を追う~八尾市からの回答
八尾市人権文化ふれあい部 文化国際課さまより、以下のご回答をいただきました。
お問合せいただきました件につきましては、申し訳ございませんが、
本市では記録や情報を持っておりません。
本市では、昨年度、非核・平和都市宣言30周年記念誌
「戦争の記憶 伝えたい平和の大切さ」を発行するにあたり、
市民の皆さんから戦争当時の体験談や品物等を募集しまし
たが、お問合せいただいた件のような情報は、残念ながらござい
ませんでした。
神州隊尾翼マーク
神州隊の尾翼マークは「荒鷲の翼に桜花」(廣瀬機)
色は翼が白、桜が赤で、デザインは相馬高等商業の美術教員、藤井魁氏による。描いたのは相馬高商の生徒。ペンキを探して色々まわり、隣接する軍需工場である「原紡」からは二色しか調達していないため花弁の縁は機体の色(九九襲撃機は迷彩色であり、機体の地の色ではないか)とのこと。(福島市T女史談)
【人物について】この機体に搭乗していた廣瀬准尉もしくは久木田中尉であると思いきや、「行寄池の光と影」という岡山市協働推進課発行の冊子には
難波准尉として掲載されている。この件については後日確認予定。
下は横に立つのはデザインした相馬高商教員藤田魁氏。
真紅の桜は情熱を、白い荒鷲の翼は純潔を表す。
上記写真の尾翼マークと異なるのは、桜花のフチも白色であることである。
描いた生徒によって違うのかは謎である。
【↑他者所有につき許可なく無断転載を禁ず。但し趣旨を言っていただければ調整します。】
六十三振武隊 木幡正義少尉 (特操1期)
現在調査中
1
戦記作家渡辺洋二さんの著書で、六十三振武隊員高田明少尉についての記述があるものを探しております。情報提供宜しくお願いいたします。
「未知の剣」に載ってたけど、特攻編成前の話だった(汗
ほかにもあればお願いいたします!
2昭和20年6月、陸軍目達原飛行場の燃料保有状況に関する資料を探しています。高田少尉は、燃料が足りなくて万世までたどり着けなかったのでした。
3
九九式襲撃機の推進式単排気管改造タイプの画像をお持ちの方はご提供をお願いいたします。
エンジン的に片側3本ずつはおかしいような気がいたします。
原町の3318部隊とは? 特警32中隊のはなし
二上英朗さんの著書「遥かなり雲雀ヶ原」(原町私史7)巻末に掲載されている原町国民学校「昭和二十年度学校日誌」六月六日の欄に、「高男三三一八部隊へ開墾作業」の一文があった。
「高男」とは高等科男子の意と察せられる。それでは三三一八部隊とは何だろうか。所持している「地区特警一覧」の四桁の部隊名とは数字が異なるため、アジ歴の資料を参照すると、進三三一八部隊は特設警備第三十二中隊であることが判明した。
ファイルを整理したらたまたま資料が出てきたので掲載しておく。