ベースとなった画像はある方のサイトから引用させていただきました。お許しください。
この機は福島の空を飛んでいません。原町で訓練を受け、列車移動で松戸に至り、ここで受領したのが特攻仕様の双襲です。暗い灰緑色に黒ブチ迷彩塗装識別線は二・三本思い思いに描いたそうなので想像図です。写真もないんです。
戦場上空で打ち落とされて生還した方の証言が記録に残っていました。
四五が組み合わさって空母の甲板を表現しているそうです。白ふちについては不明。
炎の立ち上るさまは恐ろしかったということです。藤井隊長妻子の自殺など、色んなドラマがかくされた部隊ですので今後時間を見て書いていきたいと思います。
画像は転載オッケーですが想像図ということを明記してくださいね!!
45振武隊「快心隊」の二式双襲
神州隊 久木田隊長手記 「あかねぐも~原町飛行場関係戦没者の記録」 より
神州隊の進攻図
神州隊 宮曹長についての調査 広島県立図書館からの回答
メールでお問合せの件について,回答します。
宮光男(陸軍曹戦死のち少尉)について,次の資料を調査しましたが,見付かりませんでした。
なお,郡・市町村史誌については,戦没者名簿が掲載されているものを調査し,その戦没者名簿に宮光男の名前があるかどうかを確認しました。
【 】内は,当館の請求記号です。
1 県史
『広島県史 近代2』 広島県/編,広島県,1981 【H21/H73-3/7】
『広島県史 現代』(広島県/編,広島県,1983【H21/H73-3/8】
2 郡・市町村史誌
『広島県大野町誌』 第2版 大野町郷土誌編さん委員会/編,大野町,1992【H21.22/O67a】
など,当館所蔵の郡・市町村史誌。
資料名については,当館ホームページの「広島県内県・郡・市町村史誌」を御覧ください。
http://www.hplibra.pref.hiroshima.jp/hp/menu000000800/hpg000000734.htm
3 中国新聞
昭和20年6月7日~6月15日
【許可済】第四十五振武隊 女学生血書の鉢巻き
隊長は藤井一中尉、特攻隊志願で、後顧の憂いなき様に妻子が入水、血書の嘆願書でようやく特攻隊員に選ばれたことで有名。
彼らは原町から列車移動にて松戸飛行場で特攻仕様の屠龍を受領した。鈴木邦彦少尉は原町で世話になった方に「来てください」と三回ほど連絡してきた。これに動かされて64振武隊長の渋谷中尉に依頼、飛行場に掛け合って切符を入手、彼女達は松戸を目指して原町を発つことになる。(細部加筆修正予定。)
松戸での話。
下の写真は部下の小川彰少尉に女学生鈴子(れいこ)さん(原町の歯医者の娘)が贈ったもの。彼は戦死したが、これは身に付けず残した。愛する女性の鉢巻きを身につけて征ったのだろうか。
鈴木邦彦少尉に贈った方の証言では、その歯医者の娘さんがこの鉢巻きを書いたあと、右の小指を切ってくれ、その血で自分で書いたとの由。さすがは医者の娘、気丈であったという。
鈴木少尉には手渡したとき、腹巻きにしていくという話があったようだ。
以上、鈴木・小川少尉二人に関連する鉢巻きの話でしたが大幅に修正予定。
許可を得て、彼女の名前で展示用レプリカを製作予定。
【他者所有につき許可なく無断転載を禁ず。但し趣旨を言っていただければ調整します。】
PR: リスクにご注意!海外からの医薬品の個人輸入-政府広報
神州隊資料、万世の天気について。
気象庁に問い合わせたところ、以下の回答を頂きました。ご協力頂きまして有り難うございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気象庁ホームページをご利用いただきありがとうございます。
福岡管区気象台広報担当の●●と申します。
お訊ねいただいた鹿児島県加世田の天気ですが、現在は「加世田」というアメダス観測所があるものの、
当時は測候所や観測所がないため、正確な気象状況がわかりません。
このため、当時最寄りであった以下の測候所や観測所の観測データを提供させていただきます。
鹿児島測候所(現在の鹿児島地方気象台)
6月1日から6月7日の天気概況(推測)
天気概況(0600-1800)
6月1日
曇り時々雨
6月2日
曇一時雨
6月3日
薄曇一時晴れ
6月4日
曇
6月5日
薄曇時々晴れ
6月6日
薄曇一時晴れ
6月7日
晴れ時々曇
6月7日の他の観測データ
降水量 0.0mm
気温 平均 18.5℃ 最高23.8℃(14時18分) 最低 14.3℃(05時00分)
枕崎測候所(現在の枕崎特別地域気象観測所)
6月1日から6月7日の天気概況(推測)
天気概況(0600-1800)
6月1日
雨時々曇
6月2日
曇り一時雨
6月3日
薄曇時々晴れ
6月4日
曇り
6月5日
晴れ後一時曇
6月6日
曇一時雨
6月7日
晴れ一時曇
6月7日の他の観測データ
降水量 0.5mm
気温 平均 19.1℃ 最高23.0℃(15時00分) 最低 14.9℃(00時10分)
知覧観測所(当時の知覧町にあった観測所 現在は存在しない 降水量などの数値のみのため天気概況は不明)
6月7日の観測データ
降水量 1.0mm
気温 10時の気温 20.1℃ 最高21.1℃ 最低 15.2℃
鹿児島と枕崎の天気概況は昼間(06時から18時)を対象として、当時の観測記録から今回推測したものです。
鹿児島と枕崎の状況から、6月7日の薩摩半島地域では、概ね晴れている時間帯が多かったものの、知覧を含めて降水量を僅かながら観測していることから、
一時的に弱い雨雲が通過したのではと思われます。
以上、ご参考になれば幸いです。
鹿児島県内の過去の気象資料は、気象庁ホームページにも掲載しておりますが、
特に古い過去のデータにつきましては、気象台に電話でお問い合わせいただければ可能な範囲でお答えすることができますので、どうぞご利用ください。
鹿児島地方気象台 防災業務課 ●●
磐城飛行場にまつわる流言
以下、メモ程度に記しておくが、噂話の類いであり裏付けが絶対必要。
http://page.mixi.jp/view_page_feed_entry.pl?feed_id=53769146&from=recent_entries&page_id=6970
東京電力福島第一原子力発電所。第二次大戦中は、磐城陸軍飛行場だった。赤とんぼ(訓練用複葉機)で訓練した若者は、特攻隊として死んでいった。終戦間際、米軍の艦砲射撃により使用不能に。戦後、堤康次郎が買い上げて塩田にした。
http://s.webry.info/sp/katintokei.at.webry.info/201307/article_39.html
1945 年2 月、磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立教育隊に昇格。
沖縄戦に対応する特別攻撃隊の操縦士養成の教育隊
3 月には練習機を集結させ約100 機で猛烈な訓練をした。
1945 年8 月9 日、10 日、の2 日に渡る米軍の艦載機多数による集中攻撃により完全に壊滅した。
そして8月15日に終戦を迎える。
http://tenokuchinomadokara.blog133.fc2.com/blog-entry-200.html
ちなみに、この福島第一原発の立地点は、太平洋戦争末期に建設された陸軍磐城飛行場の跡であることも初めて知りました。多くの若者が、この磐城飛行場で操縦訓練を受け、出撃のため九州南部の特攻基地に向かいます。戦後60余年を経て、再び、この地が同じような過酷な運命を背負うことになるとは…何ともやりきれない巡り合わせを感じずにはいられません。
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/95bca7d018affd1b304f8ee24626de3d
『鹿児島県知覧よりも歴史が古い福島第一の特攻基地』
東京電力福島第一原発の敷地になっている福島県の磐木飛行場の特攻隊基地跡ですが、全国的に見れば誰も知らないらしい。
ところが福島とは大違いで全国的に有名な鹿児島県の知覧特攻隊基地の歴史は昭和16年創設なので実際に存在したのはたったの4年間です。
福島県は1年も早い昭和15年建設であり、歴史的にはこちらの方が古いのです。
ところが福島県では鹿児島知覧とは大違いで記念碑の石碑一つが残るだけで、他はすべては消え果てている。
これだけの未曾有の原発事故の大騒動で『福島第一』の名称や場所は、日本人なら誰一人知らない人は無い。
超有名にも係わらず、そこが特攻隊基地だった事実を一部を除けば知っている人が居ない不思議。
落差が大きすぎて不自然である。
2014ふくしま平和のための戦争展 (コラッセふくしま)
原町特攻隊 神州隊と國華隊の九九式襲撃機
63・64振武の使用した機種は九九式襲撃機であった。
神州隊の尾翼マークは「荒鷲の翼に桜花」(廣瀬機)
色は翼が白、桜が赤で、デザインは相馬高等商業の美術教員、藤井魁氏による。描いたのは相馬高商の生徒。隣接する軍需工場である「原紡」からは二色しか調達していないため花弁の縁は機体の色(九九襲撃機は迷彩色であり、機体の地の色ではないか)とのこと。(福島市T女史談)
【人物について】この機体に搭乗していた廣瀬准尉もしくは久木田中尉であると思いきや、「行寄池の光と影」という岡山市協働推進課発行の冊子には
難波准尉として掲載されている。この件については後日確認予定。
下は横に立つのはデザインした相馬高商教員藤田魁氏だ。
真紅の桜は情熱を、白い荒鷲の翼は純潔を表す。
上記写真の尾翼マークと異なるのは、桜花のフチも白色であることである。
描いた生徒によって違うのかは謎である。
【↑他者所有につき許可なく無断転載を禁ず。但し趣旨を言っていただければ調整します。】
写真をもとに管理人が作成した尾翼マーク
別の部隊の99襲画像。
「発動機」さん有り難うございます♪
63振武での特徴は断片的だが以下の通り
①もともと集合排気管であったのを改造、単排気管にしている。
②出撃した7機に無線機は載せていない。中隊長機及び小隊長機には無線機搭載。中隊長機は事故で大破、他も機体不調のためか出撃せず。
③機銃は取り外し、全くの丸腰
④木製プロペラに交換していたが、純正金属プロペラに戻している。
⑤明灰緑色のベースに濃緑色のスプレーガンによる迷彩塗装。
⑥日の丸は白縁がつく。また、日の丸後方には白帯。
⑦機体の番号は白色、飛行場隣接の軍需工場「原紡」から調達した。
⑧部隊マークは赤と白の2色。
⑨部隊マークは相馬高商の美術教員藤田魁のデザインで、相馬高商の生徒が描いた。
64振武の特徴は編成が同時期、同じ飛行場で編成されたので上記と被る事項が多い。主にいくつか現存する写真資料による判断を記す。
(上記の①⑥⑦は同じ)
部隊改造の推進式排気管の写真が、國華隊のものであるが残っていたので掲載する。
人物は國華隊長渋谷健一大尉(少候22期出身の人格者であり、愛娘倫子さんへ宛てた遺書で有名、山形出身)である。
排気管とカウルフラップの改造、プロペラの色(茶色?)とマーク(黄色?)、キャノピーの塗装(灰緑色)
下は同じ機体の前で撮影された國華隊、井上清軍曹と家族の写真。
射撃照準器は取り外されている??
爆撃照準器のみだったのかもしれない。
と、なると風防の切り欠きは?
丸メカニックに写真があったが、手元にないので後ほど。
アンテナ支柱の有無が気になったが有ることが判明
機体の塗装は単色のものもあった。
こちらは緑一色と言えるか疑問に思う。
なお、原町飛行場を発つときの写真には中・小隊長機を示すのか、白帯付きが何機か確認できる。全てだったかも知れないが不明。
単排気管について、いくつか情報があったので転載させて頂く。
故郷に送った御賜の煙草
平和のための戦争展示喜多方 7/5~7/6
http://blog.goo.ne.jp/cherno1986jimukyoku/e/0c459f9e1a79e910fa139c4df2336b96コメント欄がなく無断転載となりました。お許し下さい。当方、北東北在住のため、簡単に行くことが出来ません。お近くの方はレポお願いいたします。
◆第20回 平和のための戦争展・喜多方 入場無料
日時:2014年7月5(土)~8日(火)
午前9時~午後6時 ※最終日のみ午後4時まで
場所:喜多方市 厚生会館ホール(〒966-0806 福島県喜多方市水上6846 )
◇主な展示
・子どもたちにわかりやすい展示
戦時下の子どもたち、戦争に行った動物たち・・・など
・会津・喜多方と戦争(日本で初めて兵役を拒否した人~矢部喜好/特攻死した喜多方
中学卒業生「私は特攻兵士だった」・・・など
・日本と戦争
B29のプロペラ、軍事郵便、戦時下の生活と教育関係の資料・・など
・世界と戦争
パレスチナ(広河隆一撮影)、アウシュビッツ平和資料館の資料、ユニセフの活動・・・など
◇特別企画
7月5日(土)13:30~「海軍特攻艇・震洋隊員 菊地定吉氏の体験を聞く」
15:00~「勤労隊員の体験を聞く」
7月6日(日)13:30~「フィリピン・ミンダナオ島からの引き揚げ」
講師 衣山武秀氏
主 催 「平和の為の戦争展・喜多方」実行委員会
共 催 喜多方市
事務局 生活協同組合コープあいづ
問い合わせ 0241-45-2625(五十嵐)
留魂砂
「洟をたらした神」 吉野せい
私の大戦回顧録 歩29ガ島戦 本土決戦磐梯部隊
PR: 予防接種で防ごう 大人の風しん-政府広報
宮城県護国神社 終戦70周年記念特別展のご案内
PR: FIATは増税の今こそ、3つのスマイル
神州隊 榊原伍長の襟章について。
榊原伍長は、おそらく私物であろう18年制式の襟章を着用していたようである。
星に、若干の立体感が感じられ、織出しの様には見えない。
万世で収蔵されている遺品のうち、星の無い将校の襟章があったが、これから星を取って移植したか?
↓↓
ということで再現中・・・。
製作が追い付けば20年春バージョンも再現可能だ。
三式と言われる18年制定の襟章は、星の配列が海軍方式の片側寄りになっている。芯をくるむようにして作られた正規のものは官給品としては製作されていない模様。私物、自作はたまに出てくるが、粗いウールでボール紙を包んだ物が多い「幼年学校よもやま物語」の中で、織出しの襟章はカッコ悪いので、左官用の刀帯(裏地が緋色ラシャ)を改造しようとしたくだりがある。
神州隊 襟章について。
アメンバー限定公開記事です。