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南相馬での神州隊取材

二度目の南相馬における取材

8月12日
・南相馬博物館にて未整理の資料を見せて頂く。複数名の遺書を撮影した写真があり、その寄贈元は一人の遺族であった。今後連絡を取りたいと思う。

・神州隊が来ていた家の話を取材。家は瀬戸物屋で、比較的大きな家だった。彼女は当時15歳ぐらい。姉が手伝っていたから、あまり積極的に接触はしてなかったようだ。

→彼らとの遊びは、当時ハイカラなトランプ。七並べと○○ジャックのほか、「ジェスチャー」という、仕草あてゲームで紅白チームに分かれて遊んだことがあったようだ。

→魚本の山本氏は風呂を焚かなかったため、隊員は瀬戸屋に入りに来ていた。

→来ていた時間帯は決まって夕方から夜

→来ていたのは佐々木平吉、榊原吉一、堀口良助その他(思い出せず)。

→佐々木平吉は可愛らしい感じ。堀口良助は明るい人、対照的に榊原吉一は静かで自分から盛り上げるようなタイプではない。

→もてなしといっても、スルメと炒り豆ぐらいしか出せない時代。隊員たちは航空糧食を持ってきて、子供たちに食べさせてくれた。おそらく支給品を食べないで持ってきたのだろう。

→食事を出したことはない。

→佐々木平吉ともう一人は原町出発が遅れた。天候不良で出発は延期。瀬戸屋と松永牛乳店の母は、二度ほど見送りに行っている。軍機のため、飛行場での大々的な見送りはなし。どこに見送りにいったか定かではなし。延期されると、佐々木平吉は瀬戸屋の母ウメに、「お母さん、また1日長生きしたよ」と漏らしたという。

→整備が終わり、出発のとき、二機は瀬戸屋の上空を二回旋回。

神州隊取材 宮光男曹長

8月13日神州隊、宮光男さんの弟さんの自宅へ電話。出たのは女性の方。

→仮祝言をあげ、原町の料亭魚本で同棲していたのは彼女だった。宮光男さんが戦死したのち、弟さんと祝言をあげたという。いま85歳とのことで、当時16歳ぐらい。久木田手記の通りであったようだ。

→魚本で仮祝言をあげた方は誰?と質問したところ、高田少尉との回答があった。今の奥さまはご存知ないとのことで、仮は仮であったようですから、何かしら事情はあったことと察せられるが、ここは踏み込むべきところではないため省略

→隊員全員の遺書について情報あり。細部は省略

→今後の取材を約束し終了。

2014終戦記念特別展 in宮城県護国神社

宮城県護国神社の企画に協力する形で東北昭和史談会が資料の展示を行っており、今年で10回目、私は3度目の参加となりました。


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今年は看板を増やして貰いました。担当者さま有り難うございました。


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熱心に見る護国神社宮司。


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テレビ局3社が駆けつけて下さいました。



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長門のレリーフ。一昨年前に来場した金髪軍艦女子よ、次回は来ておくれ!



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会員が持ち寄った軍服。


着装再現家による「体験コーナー」は若い女性に人気。新宿の平和祈念展示資料館にもあるよね。
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水兵服が女性の制服になった理由が何となくわかります。

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69年前の軍服少女と一緒に。

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会員の悪ノリでごめんね(・・;)



※※今回は軍服来場者はいなかったけどコレクション自慢おじさんはいましたねー( ̄▽ ̄;)
なんと対応していいのやら。

興味ないものを長々自慢されるのって結構辛いんすよ(;゜∀゜)
スレたマニアより、素直に展示物から何かを感じて涙してくれる人を大事にしたいよね。


2014宮城県護国神社   終戦記念特別展: http://youtu.be/RI3gtYyUe6U

展示の報道状況を、YouTubeに投稿しました。

国華隊 巽精造少尉について取材メモ

ある女性の計らいで国華隊の巽精造少尉を知る方を紹介していただいた。

15日、万世飛行場を扱った番組をみてとにかく悲しくなって泣きじゃくりながらその女性に電話をかけてきたという。原町の慰霊祭関係者に数年前電話したときの対応が冷淡に感じたらしく、それ以来原町へ行くのも電話するのも怖くなったというのだ。

私は16日にその話を聞いて、その場で了解を得て電話することにした。福島県民は忘れない、彼等の青春を過ごした原町の記憶は私が伝えていくと申し上げた。

色々と泣きながら話して下さった。
①人柄
②特攻拝命は知っていた?
③大正飛行場での面会と体験搭乗
④内縁の妻、文子さんの悲しき思い出
⑤戦後の母
⑥資料はどこへ?

上記をもとに後日掲載します。

また、奈良自a隊に収蔵されている遺書について、文子さんが写筆したものが巻き紙にして4巻あり、この複写版をA4縮小で複写。

また、国華隊関係者が書いた戦後の回覧ノートも複写した。個人エピソードはこれに敵う資料はないだろう。

原町飛行場営外宿泊者の通勤について。

営外宿泊者は通勤をどうしていたのかという疑問を投げ掛けて下さった方がいた。

話を聞いたところ、民間から借り上げたトラック(無蓋車)が定時に送迎してくれたようだ。
時間は朝8時くらい。遅れたら徒歩となる。

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神州隊 難波曹長と廣瀬准尉

久木田手記によれば難波曹長、廣瀬准尉は営外に宿泊していたとのことである。原町の誰の家に宿泊したか明らかにしたい。

国華隊 巽 精造少尉の話

国華隊の巽精造少尉の末妹の方の快諾を得まして、彼についての遺書、写真、記事を公開させて頂くことと致します。私の提示した条件は「特攻を商売にしないこと」「いつか必ず形にすること」です。無断転載はご遠慮下さい。


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巽精造(たつみせいぞう)
大正10年、大阪府吹田市の藁製品の問屋で生まれる。
大阪市立扇町商業卒、関西大学の夜間を卒業し17年10月現役兵として輜重兵4連隊へ。18年4月甲種幹部候補生。18年11月特別操縦見習士官、19年4月太刀洗飛行学校卒業、23教育飛行隊へ配属。19年7月少尉任官、8月鉾田教導師団付。20年4月第一飛行師団司令部を経て6航軍司令部付。以降は別に述べることとする。

性格は明るい難波っ子で、男らしさの中に繊細さを秘めた人物であった。正義感が強く、問屋の主人であった父常吉が年末年始に得意先へ「つけ届け」をするのを嫌な顔をして見ていたという。(商売人にとっては当時常識ではあるが)

昼は店の手伝い、夜学に通学するという忙しい生活を送っていた。家を出る前に妹のハンカチを取って汗臭い丸めたハンカチが置いてあったということが良くあったようで、家ではその思い出が印象が強いようだ。

学生時代に文子さんという女性に出会った。彼の優しさに彼女は惚れてしまう。

私は、その飄々とした風貌から面白い人を想像していたが、聞いてみると、妹さんの夜の襖の開け閉めがうるさかったらしく、初めて殴られた相手は兄だったとのこと。

兄の特攻隊拝命は家族も知っていたし、妹としては非常に誇らしく思っていた。

原町飛行場で編成された国華隊では、柳屋に合宿していたが、ある宴会では東北人の朴訥な隊長に指名されて歌などの芸を披露させられていたのは関西人の気質を買われての事であろうが、本人は毎回頼まれるのは不本意だったようだと柳屋の娘は回想する。

遺品受領の名目で家族との面会が出来た幸せな隊であった。巽少尉は原町を出陣して大阪は大正飛行場に降り立った際(5/28)に家族との面会が叶っている。他に5組の家族も来阪している。

31日に目達原へ出発しているが、天候不良で確定しない出発日に、家族は弁当持参で3日間通っている。食糧難の時代、さぞ大変であったことが想像される。大正飛行場にいたうちの1日、これは29日だと思われるが家族は飛行場に行き、父常吉と親友の藤井文太郎の父を後部座席に乗せて遊覧飛行を実施している。この時吹田の実家上空を飛んだ。その日家に残った妹二人(上の妹は病気療養中)は高いところは苦手なのに屋根に上って夢中で手を振ったという。出発の31日に見送った時は、大きかった飛行機がどんどん小さくなっていく、ゴマ粒より小さくなっていくのが今も思い出され涙するという。それが兄を見た最後だった。

許嫁の文子さんは、出発前に「二人分幸せになれよ」と言われ、また遺書には彼女を気遣う言葉が綴られている。

6月9日、父に宛てた手紙には「大阪ヲ立ツタ夕日ノ思ヒ出ヲ ソット 胸ニイダイテ征キマス」と書いている。

兄が死んだと聞いた時は、誇りはあれど悲しくはなかった。それが当時の心境だった。

母は戦後、子供たちが寝静まったあと、寝床の中でこっそりと彼の残した遺書を読んでいた。次兄は兵役経験者で内地にいたのち復員しているが、精造の遺品や遺筆にはあまり興味をもたず遺品はさっさと整理してしまったという。それを逃れるために奈良の自衛隊に預けたという。巻き紙にして4巻の長い手紙には彼の繊細さが見てとれるものである。
また、彼の日記も残されていたが、戦後に自称文筆家に特攻を書きたいからと貸し出したが帰ってこなかった。誠に惜しいことであり、発見が切に望まれる。

文子さんは「45年目の手紙」「茜空」の二冊を出版。彼への愛情を紙上にて切々と語る。これほどまで愛された方がいただろうか。現在体調が優れず、音信は途絶えているらしいが、近年まで特攻と聞くと泣いてしまう、非常に神経が細やかな方であったという。また、長年精造さんと男女の仲になれなかったことは悩んでおられた。
最後の帰郷時には、父母が気遣って二人だけで別室に泊まったというのに・・・
しかしそれは彼の、遺される許嫁のことを思いやってのことであったのだろう。

遺書には「三途の川についたら何か商売でもスベエかと考えている」と書いている。

彼は現在も遺族を見守られていることであろう。



神州隊の鍵を握る、瀬戸物屋のTちゃん

原町には、瀬戸物屋(セトヤ)があった。割と大きな家であって、他の家と同様に役場の紹介で隊員に風呂を提供していたと思われる。

ここの娘、Tちゃんは当時19歳、訪ねてくる神州隊の下士官を世話していて、関係人物も神州隊の語り部と認める方である。

今回、紹介によってその娘さんに手紙の仲介をお願いすることができた。関東方面の施設に入られているとのこと、お元気なうちにお話をお伺いしたいと考えている。


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佐々木平吉軍曹

神州隊   佐々木平吉軍曹について何かご存知ないか電話。資料は万世もしくは知覧に入れたので何も分からないとのこと。

後藤与二郎軍曹

後藤与二郎軍曹について四日市のお姉さん宅に電話。息子さんが出た。当時四日市空襲のため、役場も墓も一面焼け野原。記録も何もかも無いのである。ただ一枚の写真が残るのみ。

特攻で命を捧げ、戦災で生きた証まで奪われてしまった。せめて原町の話だけでも明らかにすると心に誓う。

テレビユー福島の方へ

番組製作にあたって、ご質問のメールを頂きながら気づかずにお力になれませんでした!!
紹介したい団体などありましたのに・・・


何卒、お許しくださいませ。

今後とも、宜しくお願いいたします。

國華隊 稲垣忠男少尉


國華隊 齋藤正敏軍曹

國華隊 岸田盛夫伍長

國華隊生還者 鈴木文治伍長と橘 保軍曹

鈴木文治伍長


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橘  保軍曹



川原文治はいつの間にか父親が鈴木姓に変えていたという。第一小隊で渋谷、橘、岸田、鈴木の編成で出撃、鈴木伍長の機体は不調だった。渋谷隊長が手信号で帰れ帰れと示したが拒否、隊長は彼の機の回りをグルグル飛んで帰るように促し、途中まで随行するように橘軍曹へ指示。鈴木伍長は帰還。橘軍曹は山に激突し重傷、行方不明だったが救助され生還。


鈴木伍長は戦後鈴木祥文を名乗る。橘軍曹とともに華隊遺族と生還者の団結に寄与。

国華隊尾翼マークと相馬女学校生徒

國華隊長 渋谷健一大尉



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愛するわが子へ 倫子並生れ来る愛子へ
真に今は皇国危急なり、国の運命は只一つ航空の勝敗に決す。翼破るれば本土危うし。三千年の歴史と共に大和民族は永久に地球より消え去るであらう。
先輩の偉業を継いで、将亦愛する子孫の為に断じて守らざるべからず、皇土斯如にして全航空部隊特に空中勤務者全員昭和二十年桜の候と共に必ず可く事に定りたり。
父は選ばれて攻撃隊長と成り、隊員十一名年齢僅か二十歳に足らぬ若桜と共に決戦の先駆と成る。
死せず共戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅墓なる思慮にして必ず死すと定まりて、それにて敵に全軍総当たりを行ひて尚且現戦局の勝敗は神のみ知り給ふ。真に国難と謂ふ可なり。
父は死にても死するにあらず、悠久の大義に生るなり。
一、寂しがりやの子に成るべからず、母あるに存らずや。父も又幼少に父母病に亡くなれど決して明さを失はずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死せりと聞かば、日の本の子は喜こぶべきものなり。
父恋しと思はば空を視よ。大空に浮かぶ白雲に乗りて父は常に微笑みて迎ふ。
二、素直に育て
戦ひ勝ても国難は去るにあらず世界に平和のおとづれ萬民大平の幸を受ける迄懸命の勉強をする事が大切なり。
二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明く暮すは父に対しての最大の孝養なり。
父は飛行将校としての栄の任務を心から喜び神州に真の春を招来する神風たらんとす。
皇恩の有難さを常に感謝し世は変る共忠孝の心は片時も忘るべからず。
三、御身等の母は真に良き母にして父在世中は飛行将校の妻は数多くあれ共、母程日本婦人としての覚悟ある者少し。父は常に感謝しありたり。戦時多忙の身にして真に母を幸福に在らしめる機会少く父の心残りの一つなり。御身等成長せし時には父の分迄母に孝養尽せらるべし。之父の頼なり。
現時敵機爆撃の為大都市等にて家は焼かれ父母を亡ひし少年少女数限りなし。之を思へば父は心痛極りなし。御身等は母、祖父母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。書置く事は多かれど大きくなつたる時に良く母に聞き、母の苦労を知り、決して我侭せぬ様望む。



山形の学童へ宛てた手紙にはこのように書かれている。


出身地山形の学徒、学童へ
 皆さん、私等は陸軍特別攻撃隊振武隊員です。永い間の希ひがかなつていよいよ出撃することになりました。大君の御為に大日本帝国のためにご奉公出来ることは私等軍人としてこれ以上の名誉はありません。
 皆さん、この戦争が長期戦だといふことをよくよくご存知ですね。
 そして次の日本を背負つて起つのはあなた達だといふ事もよく分かつていますね。私等の特攻隊として御国のために喜んで散つてゆけるのは後に数多くの皆さんが続いてくれることを堅く信じているからです。今の皆さんであれば必ず出来る。日本歴史を通してあなた達ほど強い少国民はありません。常に健全なる身体を練り立派な日本精神の人となつて下さい。
 これまで私等は度々皆さんのお友達の方々から優しい慰問を受けました。その度毎に隊員の全部が嬉し涙にくれて「よしきつとやつつけるぞ…」とますます決意を固くしました。将に皇国の嵐に咲いた私等若桜、莞爾と笑つて南の海に見事散つて見せます。この最後まで私等が強く感ずることは皇恩の有難さと、お父さんお母さんの優しいお顔です。忠孝一致は我が日本だけですものね。皆さんが健全な体で毎日の学業に励み立派な日本人にすくすく成長する事こそ、大君様とご両親に対する忠孝です。
  空往かば雲染む屍
   大君のへにこそ死なめ
    かへりみはせし
大君の御盾と散るのは誠に楽しい。若い隊員を送る母の姿と顔に私はほんとうに日本の強さを見た。

渋谷隊の最後が当時の新聞に掲載されている。

「第○○振武隊長陸軍大尉渋谷健一 ○○振武隊は自ら国華隊と名乗り渋谷大尉を中心にして美しい家族的結合は傍の見る目も羨ましい程であった。
渋谷大尉ほかの加藤隼戦闘隊出身で勇名を謳われた戦闘機乗りだ、支那戦線に活躍の後内地に帰還し各地に教官をつとめ搭乗時間三千時間という練達の士で部下の隊員には巽少尉、加藤軍曹、稲島軍曹等教え子の猛者を揃えていた。
大尉は三十二歳、一人の子の父親だった。

渋谷隊長 “隊員はみな猛者中の猛者です。急降下衝突、水平衝突平ちゃらですよ、みんなきっとやってくれます”

出撃寸前明るい笑いに弾み切った戦闘指揮所の一部屋で明朗闊達に語った隊長、渋谷大尉。
渋谷隊長以下○○機を主力とする一隊は嘉手納の泊地、巽少尉の指揮する一隊は中城湾泊地の大型輸送船撃沈の命をうけ『一機もって必ずや敵艦船を葬り、以て南海の藻屑と化せしめます』と凛たる一言を残して沖縄へ!沖縄へ!
実に見事な鉄の団結であった。
それから隊長以下全員まるで演習にでも出かけるように綺麗に発信し、而もそこに如何にも特攻隊らしい若々しい情熱と勇み立つ武者ぶりを盛りあげていたのであった。
○時○○分渋谷隊長以下相次いで突入の尊い無線が入る。
何れもほとんどが突入に成功したことはほぼ確実とみられる。
愛児の写真を胸に入れ“子供に不孝のようだが必ずわかって呉れる時があろう”とバンバンと足踏みをし、白靱の短刀を握って矢印へ桜をあしらった(加藤隼戦闘隊の印は矢印だった)尾翼の方からヒラリ愛機に飛び乗った大尉の後姿が眼に残っている。」


しかし、「白鞘の短刀」については、「黒鞘の軍刀」と書かれている記事もあるので、今後の課題としたい。

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