PR: 【三井の賃貸】最新値下げ物件が集結!賃料改定物件特集
堀口曹長の顔が判明
廣瀬曹長の顔が判明!
神州隊 宮光男曹長
陸軍曹長 宮光男
男8、女2の10人兄弟の長男。
宮家は代々続く広島の武士の血筋。
奥さんは栞さんという。血筋を絶やすまいという親同士の取り決めで結婚が決まった。特攻隊を拝命した後の帰郷では、軍服姿と制服姿の顔合わせが行われた。これが仮祝言のことだろう。
栞さんはその日ご両親と宮家に一泊 。
のちに神州隊の原町出陣まで料亭「魚本」内での同棲生活が始まる。
右も左も分からない16歳の女学生であったから、両親が姉を同行させた。姉も魚本に住んだ。
高田少尉も同棲していた。着物を着た、年上の美人な方だったという。
見送りは原町紡織工場の広い敷地で行われた。飛行場に行ったことはない。
少女時代の、短い夢のような話でした。
彼のことはよく覚えていないんです。ただ長男らしく優しかった。私のことは「しおり」と呼んでいました・・・と回想する。
※尾翼マークを描いた藤田魁先生は、町中の者が仕事をなげうって見送りしたというが・・・
?
※隊員に祝福されて仮祝言を挙げた、という認識であったが、栞さんご本人は記憶にないという。高田少尉の仮祝言も知らないという。しかし確実に同棲はしていたようだ。
私と特攻
ここ一年ぐらい、特攻のことで頭が一杯である。
何がきっかけ?
何のため?
何故ここまでする?
何故色んな出会いがあった?
本当に、本当に分からない。10年前軽く読んで本棚に放置した二上英朗さんの「遥かなり雲雀が原」ほとんど関心は持たなかったはず。映画の影響もない。興味?趣味?やっぱりなんか違う。ましてや飛ぶのがやっとの九九襲で「カッコいい」なんぞあり得ない。
「何故今になって・・・?」
疑問は疑問のまま終わるだろうか。
PR: 「危険ドラッグ」!その怖さを知っていますか-政府広報
(メモ)帯広 第一飛行師団
以下あくまで私の仮説。
六十三、六十四振武隊は編成当初第一飛行師団付きとして原町飛行場で編成された特攻隊である。
1飛で編成されたのは、244戦隊ホームページの振武隊編成表を見ると原町の2隊だけである。
64振武隊の生還者、鈴木文治さんの著述及び、光人社「特別攻撃隊の記録」によれば、当初は千島、アリューシャン方面に向けて編成されたという。
確かに、1飛は北海道、千島方面の防衛が任務だ。
沖縄の戦いが苛烈になるにつれて6航空軍に転属となったのであろうか。
だとすれば編成当初の名称は?「と号六十三隊」なのか?
(メモ)原町特攻隊の歌
以前ブログにて紹介したが、作詞は木下栄寿少尉ではなく、國華隊井上清軍曹らしい、というところまでは分かった。
しかし、愛唱歌といいながら、どこの隊で歌われていた、という具体的な証言がない。
ガ島戦戦没者ご遺族様からの提供画像
(神州隊史メモ)原町を発てなかった二人
一人は佐々木伍長。彼の機はエンジン不調だった。堀口曹長は彼に付き添いで一緒に残ったようだ。(木幡少尉と服部軍曹で第1編隊、堀口曹長と佐々木伍長で第2編隊)
その夜、したたかに酔った堀口は松永牛乳店を訪れる。
「叔母さん、本当は午後から故障が治って発てたんだよ。そしたら、恋人のいる彼が頼むんだ、もう一日待ってくれと・・・おれはやりきれないよ」(八牧美喜子「いのち」より)
(國華隊メモ)原町特攻隊の歌と國華隊
原町特攻隊の歌の伝承経緯が分かってきたので推測を交えて掲載
原町飛行場で編成された國華隊の井上清隊員が作詞(三番まで)
國華隊の隊員は、「宴会など砕けた場面で」時折歌っていた。(宿舎となった柳屋の娘より)
木下栄寿と八牧通泰は原町飛行場で航空士官学校58期の教官と学生という関係であった。
木下が口ずさんだこの歌を、八牧は木下作詞として書き残した。
慰霊顕彰会は男性合唱団原町メンネルコールの協力で慰霊祭のときに歌ってもらい、現在に至る、と言ったところか。
(國華隊メモ)「同期の桜」と國華隊
國華隊と同期の桜
國華隊は尾翼マーク完成のお礼に相馬女学校を来訪。
巽少尉「何のお礼もできませんから、お礼の気持ちに歌を歌います。」
肩を組んで「貴様と俺とは同期の桜 同じ鉾田の庭に咲く」
一曲歌って終わりだった。
尾翼マーク完成とともに、5月28日彼等は原町を発ち、大正飛行場に向かった。
※「同期の桜」原曲の「二輪の桜」は陸軍の歌。
原町飛行場関係戦没者慰霊祭のご案内(10/12)
「陸軍特別攻撃隊」(特別攻撃隊の記録、陸軍編)
表題の本に掲載されている45振武隊の写真、写真が誤っているので訂正させて頂く。
まず場所は鉾田ではない。場所は松戸。
鈴木少尉は前列右。遺骨の箱を持つのは中田茂少尉。遺骨は坂伍長。板ではない。與国伍長は興国ではない。
宮原伍長は宮原と書いて「みやのはら」と読ませる。宮之原ではない。
※45振武隊の屠龍はこのような感じだったのだろうか。宮原太吉伍長は、部隊マークについては火柱が上がる如く、うねるような部隊マークを描いている。松戸飛行場で見た人は、真っ黒い迷彩が緑色のまざったような灰色の地に描かれていて大変恐ろしかったという。
イラストでは胴体は白帯1本であったが2・3本識別のため、思い思いに書いていたとのこと。
また、方向舵の下部には白色の漢字で、操縦者の苗字が描かれていたはずである。
例えば、藤井隊長の機は「小川」だった。
PR: 公式サイト/東栄住宅 e-blooming.com
9/14 会津で29連隊に関する講演会あり!
原町特攻隊 神州隊史
第63振武隊、通称神州隊。
遥かなり雲雀原より
昭和20年4月撮影
※木幡さんのご遺族より情報提供あり。
昭和20年3月23日、第1飛行師団担任により編成
使用機種九九式襲撃機
隊長久木田清中尉
編成地及び訓練基地:原町基地
最終待機基地:万世基地
出撃:昭和20年6月7日
【沿革】
20.3末
・久木田中尉 特攻隊長を拝命。第1飛行師団付。
・飛行隊長より全員が(国華隊含むと推察)最期の休暇を貰い、近畿以西の隊員が帰省の為に双発高等練習機にて出発。(操縦者は国華隊の横田彦次郎軍曹?)
・休暇後、立川で飛行機受領。戦局がら、飛行機不足により2機、3機と数回に分けて受領した。
・訓練の重点は薄暮・夜間攻撃に置く。
・飛行機は、2・3機がいつも不調で困った。
【私生活】
・原町では営内居住者は料亭「魚本」(主人山本勘太郎)を宿舎とする。
・魚本主人山本氏は地元民から「カンちゃん」と呼ばれていた。
・久木田中尉は堀池カネ宅に下宿住まい、魚本に合宿するまでは廣瀬准尉・難波曹長は営外居住であった。
・高田少尉、宮曹長は恋人と仮祝言をあげて魚本の別室に同棲した。
→→高田少尉は戦後別の方と結婚している。原町時代のことは仮祝言を含めてまだ不明。
→→→仮祝言を挙げた人、若しくは恋人関係にあった女性で、子供が出来ていたのに籍には入らなかった人がいる(聞き取り調査)
※短い間ながら夫婦を独身隊員と同じ屋根の下に住まわせたのは、隊長の配慮に欠けると見る向きもある。(士官学校出の純粋培養の将校である。これもまた、致し方のないこと。)
・神州隊は、割合に恋人のある者が多くいたらしい。しかし、「自分は尽くすだけ尽くした」という感じで、割合にサバサバしていたという。(その心中は本人のみが知る)
・瀬戸物屋の古山さん宅にはよく遊びに行っていた。
・佐々木隊員は古山さんの娘テルさん(通瀬戸屋のテルちゃん)の電力会社の同僚と恋愛関係にあったようだ。
・佐々木隊員は、松永牛乳店によく遊びに来ていて、おかみさんの事を「お母さん」とよんでいた。
・服部隊員は魚本の近所の娘と恋愛関係にあったようだ。
・久木田隊長柳屋の娘に絵を描いてプレゼントしてくれた。上手だった。
20.4.19第1飛行師団から第6航空軍に所属変更となる。ということは「振武」の名称はここで付けるようになったのではないか。(と号63隊などと称していたのだろうか。)詳細は調査中。
20.4.21
難波曹長書簡より
「今日は町の婦人会の人々から我々に対し出撃に際し御苦労の意味にて宴会を催して下さいました。」(行寄池の光と影~岡山県吉備中央町)
左より、難波、佐々木、広瀬?沢田?榊原、服部、宮
20.4.26 酒宴あり(吉川誌)
20.5.15 ~20
相馬野馬追いの服装をして思い出作りをしてもらおうと考えた柳屋主人が、第六十四振武隊國華隊が下宿していた料亭柳屋に神州隊員を招いた。その柳屋の日本庭園で撮影された写真とのこと。写真は「あかねぐも」より引用。実際に甲冑姿での写真を撮影したそうだが、現存しているかは未確認である。國華隊の甲冑姿の写真はいくつか現存する。
20.5.23か?
原町を発つ前日
久木田隊長に尾翼マークを描いた相馬中学図画教員藤田魁氏ほか11名の生徒が招かれ、それぞれの機に分乗して相双の空を飛行した。
一番機は久木田中尉 藤田魁教員が同乗
三番機は難波准尉 椎名正生徒が同乗
「機中には、操縦席以外、邪魔物は全部取りはらわれていた。少しでも機体を軽くせんとの計画からだったろう。私共は機内でじかに尻をつきこしをかがめて乗っていた。」(藤田教員手記)
↑
※他部隊隊員の手記によれば、重心を前方にして衝突時の効果を上げるためとされる。
原町を発つ前日の晩
料亭魚本で町内有志が隊員をかこみ別れの宴を催す。
地元の日露役の勇士加藤軍曹が三尺の愛刀を久木田隊長に贈呈。
20.5.15
原町出発予定が天候不順のため延期となる。
榊原隊員の5月15日付書簡より
「小生五月十五日山口防府の飛行場に移動する様になりました。」(これについては不明)
20.5.24日(吉川誌に、難波曹長の原町出発日の俳句が掲載されているため。)
・ 原町から八尾市大正飛行場に転進。数日間滞在する。
・出発日には大勢の見送りがあったらしいが詳しくは不明。
・2機が機体不調で原町に戻った。しかし修理は早めに完了して出発できたようだ。以下は地元の方の証言によるが、恋人のいる佐々木平吉軍曹は、同じく機体修理中の堀口曹長を引き留めた。「もう一日引き伸ばしてほしい」と。2機は飛行可能であったが、二泊ののち本隊に追及することになった。夜、痛飲した堀口が松永牛乳店を訪れて泣きながら、心中を吐露したという。
・整備雇員堀池時正氏は佐々木隊員の好物の枇杷を農家から貰って特攻機に入れてあげた。
↑↑
「嗚呼原町陸軍飛行場」のエピソードで、万世飛行場の出撃時の話として書かれているが、事実関係を調べたが飛行場近在の小作農家で原町飛行場に雇員として勤務していたとのこと。
「雇員(こいん)さん」と呼ばれ、よく農作物を差し入れしていたとのことである。したがって原町での話であろう。
20.5.25
難波曹長、八尾の大正飛行場より郷土訪問飛行を敢行。
20.5.29~31?
大正飛行場滞在時、廣瀬准尉、隊長機(11号機)の試験飛行中生駒山に墜落する事故が発生、空中より偵察の結果、負傷しているが生命は無事とのことで木幡少尉以下下士官一名を差し出し飛行場大隊の車で収容。飛行機は大破、廣瀬准尉は終戦まで陸軍病院に入院し原隊復帰ならず。(「あかねぐも」より)
・この事故により、隊長機が広瀬機の13号機となる。11号機の無線機は回収されず、13号機は無線機非搭載のままであった。
20.6.1 一部隊員の進級発級
・陸軍准尉へ…廣瀬・難波
・陸軍曹長へ…後藤
・陸軍軍曹へ…榊原・佐々木
※5/1という説もあり(244戦隊ホームページより)
↑「難波准尉が将校の軍装一式を大阪偕行社で揃えて見せびらかしていた」という一文がある。(隊長手記より)
20.6.2
佐賀県目達原飛行場に前進、私物品の整理を実施。
目達原では、國華隊は西往寺を宿舎としたが、神州隊は近所の民家に宿泊したとみられる。
・知覧特攻平和記念館には神州隊寄せ書きマフラーが寄贈されている。目達原飛行場近くの上峰小学校教諭からの寄贈品という。
20.6.4 時間1000(知覧のマフラーより)
鹿児島県万世、唐仁原飛行場に前進。
・國華隊 加藤俊二軍曹の6月5日付書簡より
「魚本の連中は昨日此の地を元気よく南に飛び立って行きました。小生達も今日か明日でせう。」(「原町戦没航空兵の記録」より)→目達原発は6/4で確実。國華隊とも接触があったことがわかる。
・木幡少尉、堀口曹長は目達原に残留(整備完了をもって万世へ前進予定であったと推察される。)宿舎は加世田町の飛龍荘。
→木幡少尉は目達原を発ったが、燃料不足のため万世に到達できなかった。(木幡さんご遺族より)
堀口曹長も同様の理由か、機体不調なのかは不明。
会報「特攻」26号
特操2期 松浦喜一さんの回想より。
20.6.7朝
・出撃命令あり「本日薄暮、第六十三振武隊の全機をもって沖縄に攻撃をかけよ」
・隊長は木幡・堀口隊員の身寄りがなくなるのを慮り、全員が揃ってからでは、と具申したが可動の全機でやってくれと言われた。
20.6.7午後
飛行場で出撃の打合せ
・編隊形式をとらず、2~3機ずつ単縦陣をとって3方向を低空で接敵すると決定。
・出陣式挙行・使用機始動直前に空襲警報あり。爆装解除し爆弾のみ隔離。
・空襲警報解除(敵機は現れなかった)・再度爆装作業・16時50分~55分、7機が出撃、機体不調のため久木田中尉、高田少尉離陸できず。
以下の7機が出撃していった。
准尉 難波晋策
曹長 宮 光男
同 後藤與二郎
軍曹 服部良策
同 中沢留吉
同 佐々木平吉
同 榊原吉一
・直掩機なし、無線機なし(無線機搭載は生駒山中で大破した隊長機、小隊長たる木幡・高田機)、偵察機の戦果確認 なし。したがって、彼らがどのように散っていったかは知る術がない。
・中沢軍曹は徳之島に敵戦闘機の攻撃を受け不時着して生還。「6/7 万世ヨリ出撃、未皈還ト報セラレタルモ 6/30 奄美大島ニ生存シアリ、経緯不詳」(振武隊異動通報 第四号~244戦隊のホームページより)
・中沢隊員は、その後大島(古仁島)から海軍の水上偵察機によって軍司令部に帰還。
・久木田手記によれば、中沢隊員は、「なぜか」万世の原隊に復帰しなかった。
20.6.9
飛龍荘にて、高田・木幡少尉と国華隊の巽少尉が再会。(巽少尉9日付書簡より)
・久木田隊長は6月10日大尉に進級。飛龍荘で少年飛行兵の生還者を監視、 所属敵機動部隊北上の際は特攻生還者を第三十二攻撃隊に所属させてこれを指揮し、出撃する事になっていた。(陸軍特攻「振武寮」あとがきより)
・木幡・高田少尉も中尉に進級。時期不明。
20.7.10
航空総軍司令官 河邊正三大将より感状が授与される。(「吉川誌」より)
・関係者の話では、久木田隊長は終戦直前に原町を訪れたという。
・高田中尉は今から約30年前、戦記作家渡辺洋二氏に取材を受けている。未知の剣という本だったが、内容は特攻以前の話である。
・木幡中尉は平成20年3月にお亡くなりになった。
出典「あかねぐも」久木田隊長の手記
「原町戦没航空兵の記録」遺書・書簡
「嗚呼原町陸軍飛行場」
「陸軍最後の特攻基地」
「花吹雪」第六集 尾翼マークについて
「244戦隊ホームページ」主に人事関係
「会報特攻」26号 飛龍荘における生活
「吉川誌」岡山県吉備中央町
「行寄池の光と影」岡山県吉備中央町
「陸軍特攻「振武寮」」林えいだい
南相馬市の皆様
古山陶器店のてるちゃん、あいちゃん
松永牛乳店の美喜子ちゃん
木幡中尉ご遺族さま
目達原での神州隊
知覧に展示されている寄せ書きマフラー
寄贈した教員
点が面になろうとしている。
知覧のマフラーは、寄贈者がコピーしている。可能であれば複写させていただきたいと思う。
知覧の職員Y様、上峰町ふるさと学館M様、ご協力有難うございました!!
一冊のアルバム
今日、私の手元に、一冊のアルバムが届きました。持ち主は神州隊・服部良策軍曹。彼のご遺族から御手紙を添えて送ってくださいました。
ブログへの公開は見合わせておりますが、いずれは薄くてもいいから一冊の本を書きたいと考えています。目的は図書館や学校などへの寄贈用。
以前ある方から言われました。「特攻はお金になるのよ。本でも演劇でも、特攻・特攻でしょ。お金儲けしたい考えだと平気で嘘もつけるのよ」と。私は絶対に特攻で商売しません。